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悪くなった翻訳 『聖書 新改訳2017』

新改訳聖書の全面改訂版といえる『聖書 新改訳2017』は原典に忠実だと言われており、刊行元もそう言いますが、はたして、本当にそうでしょうか?

全体を細かく読んだわけではありません。それにはかなりの時間がかかってしまいます。
また、私には旧約ヘブライ語の知識がないので、旧約に関しては、原典と対比させてどうこう言う能力はありません。


新改訳2017の「新約聖書」を読みながら、これが本当に原典に忠実なのかと思いました。

『聖書 新改訳(初版)』と『聖書 新改訳2017』の両方から引用します。


新改訳初版「ペテロの手紙第一」
「3:19その霊において、キリストは捕われの霊たちのところに行ってみことばを宣べられたのです。」
「4:6というのは、死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていたのですが、~」

比べてみると、

新改訳2017「ペテロの手紙第一」
「3:19その霊において、キリストは捕われている霊たちのところに行って宣言されました。」
「4:6このさばきがあるために、死んだ人々にも生前、福音が宣べ伝えられていたのです。~」

3:19はより直訳に近づいたとも言えますが、イエス・キリストは陰府(よみ)に行って死者の霊に福音を伝えたという説を否定しようとする意図を感じます。
4:6はもっと露骨で、わざわざ原文にない「生前」という語を訳に挿入し、生きているときに福音を聞かなかった者に死後に福音が伝えられることはないと思うよう、読者を誘導する翻訳にしています。

原典を忠実に訳すのではなく、東方教会や無教会その他の「死者への福音伝道」説を否定するように訳文を曲げていると感じます。
東方教会の先人には、もちろん新約ギリシア語の達人がいたのでしょうし、バークレーも、黒崎幸吉も、前田護郎も、新約ギリシア語の達人で、博識の人でした。「死者への福音伝道」説の是非について私はコメントしませんが(※)、読みようによっては、ギリシア語の原文から「死者への福音伝道」の可能性を導くことも出来るのです。ギリシア語を知らなくても新改訳初版を読めば、「死者への福音伝道」もあるのかもしれないと考えることが出来ます。

それが、新改訳2017だけを読んでも、出来なくなりました。

つまり、新改訳2017はある種の意図をもって訳されており、ギリシア語の原文(ネストレ・アーラント校訂28版)をそのまま素直に訳していないのです。意図的に、本文にない語を加えてまで、特定の解釈へ誘導する訳なのです。それは聖書の改変であって、学問的な研究によって一部ネストレ・アーラントと異なる写本の読みを採用するというのとはわけが違います。(※※)

まず解釈が先にあり、解釈に合うように翻訳しているのです。

新改訳初版にも解釈に合うように訳された箇所もあったのかもしれませんが、これほど露骨ではありませんでした。
初版の翻訳者は、意味がよく解らない箇所も、基本的には書いてあるとおり訳していたのです。だから、使える訳でしたし、私は今も使っています。

「自分たちの解釈を翻訳に反映させる」より、「意味がよく解らなくてもそのまま訳す」べきです。

もう新改訳の旧版が増刷されることはないでしょう。日本の福音派に広く使われる聖書がある種の意図を持つ「訳」に変えられてしまい、残念です。日本聖書協会は戦前の文語訳聖書や戦後すぐの口語訳聖書(一部変更がありますが)を今も出していますが、新日本聖書刊行会さんが新改訳の旧版を増刷したりはしないでしょうね。

経典の翻訳で、解釈に合うよう本文をいじるのは、やってはいけないことなのに。経典に限らず、まず、正確なデータを提供した上で、自分たちはそれをこう解釈すると説明するのが筋でしょう。新改訳は基本的に引照・注付なんだから、まず原文を忠実に訳した上で、欄外に翻訳者の見解を書けばいいだけの話なのに。

科学の実験や観察記録で、自分たちの見解に合うようにデータを変えてしまったらどうなりますか。たとえ不都合なデータがあっても、それを正直に示した上で見解を書くのが筋です。
正しいと信じる経典も同じこと。自分たちの解釈が先にあって、その解釈に合うように経典を書き換えるなんて、決してしてはいけないことなのです。

「誤解されることのないよう訳すべきだ」と言う人もいるでしょう。しかし、何が「誤解」なのか、簡単に断定はできません。読みようによっていろいろ解釈できる箇所は、そのとおり訳しておくべきです。

「たとえ一部に悪くなった箇所があっても、全体的には良い訳になっている」と言う人もいるでしょう。しかし、一部でもある種の意図をありありと感じるということは、これは最初から特定の解釈に導きたい意図をもって訳された翻訳ではないかと疑われます。私はそのような翻訳の姿勢に問題を感じるのです。それに、よしあしはパーセンテージでは決められません。もし99%の清い水に1%の猛毒が混じっていたらどうでしょう。それは飲用に適するのでしょうか。

聖書学・キリスト教学の世界でまったく相手にされていないカルトじみた人たちの「訳」じゃあるまいし、一定の影響力がある新改訳がこんなことをするなんて・・・・。

日本の福音派の翻訳の水準が落ちてしまった、ということなのでしょうか。そしてそれは、福音派の教師たちの思考の硬直化が進んだということなのでしょうか。

あきれた!

私は、『聖書 新改訳2017』は、今後の聖書の学びには一切使わないことにします。

(伊藤一滴)


※神話的な世界観の中で生きていた古代人の表現を引っ張ってきて「人は死んだらこうなります」なんて言えませんから。

※※英語に「訳」されたものに改変がもっとひどいのもありますけどね。また、改変された「訳」を見ながら「訳」したと思われる日本語版もありますね。
人がある種のイデオロギーに囚われると聖書を改変してこんな「訳」になってしまうという参考にはなります。聖書の訳としては使えません。

なお、私が今回書いたようなことが大問題になっているのかと思ったら、ネットを見ても探せませんでした。

エペソ4:9の訳を問題視している方がおられましたが・・・・、
旧訳の「地の低い所」(エペソ4:9)は、「地上より低い所」(陰府)とも、「(天に比べて)より低い所である地上」とも、どちらの意味にも取れます。口語訳聖書は前者、新共同訳聖書は後者の意味に訳しています。
この箇所について『聖書 新改訳2017』の訳は誤訳とは言えません。

コメント

私は、原語については、分かりませんが、新改訳2017を読んで、疑問点をまとめてみました。
http://joseph-daniel.cocolog-nifty.com/testimony/2021/04/post-28e03d.html
参考になれば幸いです。

新改訳聖書の訳だと、イエス様の言葉づかいがていねいで、言葉の響きがやわらかいので、個人的には、言葉づかいに関しては好感を持っています。でも、翻訳や表現にはいろいろ問題があるようですね。
教えていただきありがとうございました。
最近、聖書そのものの矛盾と思える箇所について、いくつか書いていますので、よろしければご覧ください。
(一滴)

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