唯一絶対は、実は相対的
唯一の神だの、唯一の救いに至る信仰だのと、唯一を信じれば、「自分たちは正しく、他は間違い」になります。
唯一ですから、他に神はなく、他に救われる信仰はないのです。
ここに、エキュメニストと呼ばれる他者に寛容なキリスト教信者が抱える矛盾があります。
たとえば晩年のカール・バルトやカトリックの第二バチカン公会議は、キリスト教以外の思想信条の中にも価値あるもの、真実なものを見出す方向に動き、共生を模索しました。
しかし、唯一を信じるキリスト教にとって、唯一絶対は譲れません。唯一の正しいものを信じる以上、「他は間違い」になりますから、間違いを指摘して改めさせるのではなく、間違っている他者との共生をめざすという矛盾が生じるのです。
一方、「自分たちは正しく、他は間違い」だから、キリスト教以外の思想信条を否定し、他者に寛容な教派も批判する反エキュメニズムの立場であれば、こうした矛盾は生じません。
福音派の中の特に保守的なグループや原理主義者がそうです。(※1)
ただし、信じる側は人間ですから、唯一を信じるといっても、人間の思考の及ぶ範囲のことしか認識できません。
(それ以前に、そもそも客観的に存在を証明できない「神」のようなものを認識の対象にできるのか、という問題があります。そして、どんなに認識しようと努力しても、それは人間の思考が及ぶ範囲に限られます。)
人間に分かるのは「人間の思考の及ぶ範囲」の神です。
神を、「人間の思考の及ぶ範囲」に閉じ込めることはできません。
神が人間を超越したものなら、人間は神に関し、わかったようなことを言えないはずです。
わかったようなことを言う人もいますが、それはその人の思考の範囲の中における神であり、その人の主観的な思いかその人が属する団体から教えられた神についての見解か、どちらかでしょう。
人の思いはさまざまです。
聖書が根拠だと言っても、その解釈はさまざまで、聖書の言葉を引用してまるで正反対の結論を導くこともできます。(※2)
「神とはこうだ、これが正しい信仰だ」なんて、簡単には言えません。
言えるのは、せいぜい、
「私は神とはこうだと思う、これが正しい信仰だと思う」
とか、
「この教派では、神とはこうだと信じ、これが正しい信仰だと信じてきた」
くらいです。
唯一を信じているはずなのに、キリスト教の中には無数の解釈、無数の教派が生じています。
唯一の神、唯一の救いに至る信仰について、微妙に違うことを言う人もいれば、まるで違うことを言う人たちもいます。
人間の思考の及ぶ範囲内で考えているわけだから、唯一絶対は、実は相対的なんです。
人間の思考の中の神を真の神、それを信じるのを真の信仰だと思っているのです。
そうやって、特に、反エキュメニズムの人たちは異なる主張を厳しく非難します。
何が正しいキリスト教なのでしょう。
過去の歴史を見てください。
正しいキリスト教とされるのはつまり、多数を占めた側です。
よく言われます。
「異端派が多数を占めることはない。なぜなら誰も多数を占めた側を異端派とは言わないから」
と。
(伊藤一滴)
(※1)私は、福音派の中の特に保守的なグループの主張に、原理主義の精神性のようなものを感じます。「ここまでは福音派、ここからは原理主義」と、線を引くのは難しいです。
なお、ここで言うのは「福音派の中の特に保守的なグループ」のことであり、福音派はみんなそうだなんて思っていません。
(※2)前から言っているとおり、戦争、奴隷制、死刑、同性愛、女性の指導者等々について、聖書を引用してまったく反対の主張ができるのです。
最近だと、非クリスチャンにとっての救い、死後に悔い改めて救われるチャンスの有無など、それぞれに聖書を引用してまったく逆の主張をぶつけ合っている人たちもいます。そんな、古代の世界観の中で生きていた古代人の表現を引っ張ってきて、「こう書いてありますから、人は死んだらこうなります」なんて言ってもしょうがないと私は思いますけどね。むしろ、「死後」についての引用箇所から感じるのは、天界・地上・下界という三層の世界を信じていた古代人の世界観です。
コメント