私と「新改訳聖書」 イエス様の言葉づかい
1973年、小学校3年生だった私は、たまたまキリスト教の団体の方から新約聖書をいただきました。
当時の私には、本は貴重なものでした。
私は、山形県の田舎町で生まれました。家にはほとんど本なんてなくて、文化的なものとはおよそ縁遠い家でした。
せっかくもらった新約聖書ですから、紙でカバーを作り、汚さないようにして、最初のマタイ福音書から順に読み始めました。新改訳聖書でした。
新改訳ですから、配布していたのは福音派系の団体だったのでしょうか。
1973年に山形県の田舎町で子どもに聖書をくれたのはどういう人たちだったのか、今となっては確かめようもありませんが・・・・。
それが私と聖書の最初の出会いでした。
まさか、受け取った子どもの中の一人(つまり私)が、その後マニアのように聖書に夢中になるとか、「福音派」と名乗る人たち(新改訳聖書を使っている人たち)の一部を、手厳しく非難するようになるとか、配った人たちは想像もしなかったことでしょう。
日本語の聖書の多くが総ルビの(すべての漢字に振り仮名がついている)本ですが、その新約聖書もそうでしたから、小学生でも読むには読めました。「姦淫」なんて言葉も出てくるんで、どう思って読んだんでしょうね。
小学3年生でも、読んでいて、心に響く箇所がありました。
また、福音書相互の食い違いも感じていました。
聖書の他の訳を知らなかったので、ずっとこの新改訳の新約聖書を読んでました。高校生のとき、新約と旧約が一冊になった聖書を買いましたが、これも、今までなじんだ新改訳を買いました。
キリスト教の教派の特色も、そもそも教派のことも、ほとんど何も知りませんでした。常識的に知っていたのは、キリスト教にはカトリックとプロテスタントがあることぐらいでした。
家から行ける距離にある「正統プロテスタントの、正しい聖書信仰に立つ福音的な教会」に行って、話を聞いたりもしました。その「教会」も新改訳聖書を使っていました。
歓迎してくれましたが、私が疑問に思っていたことを聞いても、どうも話が噛み合わないんです。何度か行くようになってから福音書相互の食い違いについて聞いても、「聖書に食い違いなどありません」みたいな感じで。しつこく聞いたら嫌な顔をされました。
あとから思えば極端な原理主義(あるいはカルト)の集まりでしたが、他の教派のことを何も知らないし、すぐに変だとは気づかず、時々行って話を聞いていました。「あれっ?」と思うような話もありましたが、いい話もするんです。
やがて、高校生になって倫理社会の授業を受けたりいろいろな本を読んだりするうちに、「どうもあの教会は変だ、普通のキリスト教ではないようだ」と思うようになりましたが、「普通のキリスト教」を知らないので比べようがありませんでした。
高校を卒業した1983年、浪人し、仙台の予備校に入りました。
家からは通えないので、予備校の寮に住みました。
寮から予備校に行く途中、教会を見かけ、寄ってみました。聖書やキリスト教のことを聞きたかったのです。それは福音派の教会でした。福音派を選んでそこに行ったのではありません。当時、教派のことはよく知らず、たまたま寄ったら福音派だったのです。
高齢の牧師さんがおられ、お話を伺いました。とても温和な、優しい感じの人でした。聖書についての学問的な話はあまりなさらず、聖書を引用しながら、ご自分の体験や、生き方についての話をしてくださいました。そして、「伊藤さん、あなたはどう思いますか?」とたずねるのでした。孫のような私(当時19歳)にきちんと敬語を使い、「伊藤さん」と呼び、私のために祈ってくださるのでした。
私が聞いたことに対しても、誠実に答えてくださる方でした。ごまかしたり、話をそらしたり、決してしませんでした。即答できないようなことを聞いても、「次にお会いするときまで調べておきます」とおっしゃり、本当に調べてくださいました。時には、その答えに納得できないこともありましたが、調べて答えてくださるその姿勢に、誠実さを感じました。
私は、この牧師さんとお話するのが楽しくなって、牧師さんのご都合のよいときに時々寄るようになりました。
あの牧師さんが人を悪く言うのを聞いたことがありません。他宗教・他教派のことも、決して悪く言いませんでした。
その教会でも新改訳聖書を使っていましたが、牧師さんは他の聖書の翻訳について非難めいたことは何も言いませんでした。私が口語訳聖書やカトリックの訳などを持って行っても、「訳し方によってはそうも訳せるのですね。いろいろな訳で読んでみるのもいいですね」とおっしゃるだけでした。
そして牧師さんご自身、いろいろな訳をお読みになっていました。
山形県にいたときに最初に行った「正しい聖書信仰に立つ福音的な教会」は、他の立場を悪く言うことで自分たちの正しさを主張していましたから、同じように福音派と名乗っても、えらい違いでした。
いろいろ本を読んだり人の話を聞いたりするうち、プロテスタントにはリベラルな主流派と、保守的な福音派がある、とか、新改訳聖書は福音派の独自の訳だとか、だんだんわかってきました。1983年~1984年頃でした。浪人中から、大学生になった頃です。最初に聖書に出会ってから10年経っていました。
1984年、大学に進み、愛知県に引っ越しました。本当は聖書学や神学を専攻したかったのですが親の許しを得られず、社会福祉学部に進みました。福祉も、学んでみたい分野でしたし、社会福祉学部ならキリスト教と関係が深いだろうと思う気持ちもありました。でも、入学してみたら、宗教よりマルクス主義の影響の強い大学でした。それはそれで、勉強になりましたが・・・・。
だんだんリベラルな聖書理解に触れるようになって、主に日本聖書協会の口語訳聖書を使うようになり、やがて新共同訳聖書が刊行されたので、これも併せて使うようになりました。その後RSVやNRSV、時々は現代表記の欽定訳(AV,KJV)も参照しています。
まあ、それぞれの訳に特徴があって、この訳が最高だ、なんて言えません。
これまで、文語訳、複数の個人訳、カトリックの訳、いろんな訳で聖書を読みましたが、イエス様の言葉づかいに関しては、最初に読んだ新改訳が一番好きです。
新改訳のイエス様は、言葉がていねいで、言葉の響きがやわらかいのです。翻訳の良し悪しではなく、発言の印象の問題です。
私は、一般の人たちにていねいな言葉で話しかけたイエス様を想像しています。
まさかね。一般の人に向かって、今の日本語にすると「~である。」みたいな口調でものを言ったとは思えません。論文じゃあるまいし。
会話なのに「である」調だと、なんだか尊大で、居丈高な物言いに聞こえてしまうんです。
大学生のとき、学内で聖書カルトっぽい人たちから取り囲まれてさんざん詰問されて、ひどい目に遭いました。「あなたの聖書理解は間違っています」とか、「あなたには信仰がないからそんなことが言えるんです」とか、「あなたは救いの内にいないようです」とか。
彼らは自分たちなりの「正しい聖書理解」を掲げ、それに当てはまらない人を「間違っている」として糾弾していました。
彼らの考え方は、山形県内で会った「正しい聖書信仰に立つ福音的な教会」とよく似てました。
私を詰問した人たちが使っていたのも新改訳聖書でした。
彼らは自分たちの聖書信仰の正しさを確信してましたから、聖書の正義で誤りを糾していると思っていたのでしょう。自分たちは正しく神を信じ、正しいことをしているという熱意に燃えていたのでしょう。
そういうことが何度かあると、さすがに私も頭に来ましたね。当時は私もまだ若くて血気盛んだったし、本当に腹が立って、かなり言い返してやりました。私が筋を立てて反論しても一切聞く耳を持たない「確固たる信念」の人たちでした。それは信仰というより、他の宗教カルトや左翼セクトと同様の、病的な思い込みのようでした。
正しい聖書信仰の名のもとに病的になってしまうのですから、もし本当にサタンの働きというものがあるのなら、彼らの「信仰」こそまさにサタンの働きでしょう。
当時の大学にはカルト相談窓口なんてなかったし、当時の私も彼らを思いやる余裕などなくて、ただただ腹を立てていました。
彼らが持っていた新改訳聖書と同じものを私も持っていましたが、そのぶどうのマークを見るだけでも怒りが込み上げてきて、新改訳にはさわりたくもなくなって、捨ててやりたくなりました。でも、この訳にはいろいろ思い出もありましたし、仙台の牧師さんのこともあって、思いとどまり、捨てるのをやめました。
このとき、新改訳聖書以外の福音派系の本はほとんど捨てたので、自分の本棚がリセットされました。
彼らのやり方は、まったく、マイナスの伝道です。
人を聖書に導くのではなく、聖書やキリスト教への反感や怒りを広めているだけです。
あとになって、また福音派系の本を買うこともありましたけれど、よくよく選ぶようにしました。
1990年頃になっての話ですが、東京で暮らすようになり、あるカトリック司祭(神父さん)と話をする機会がありました。当時、司祭になったばかりの若い人でした。その神父さんに聖書カルトらしき人たちに取り囲まれた話をしたら、彼が言うんです。
「僕もやられたことがありますよ。神学生のときでした。僕が神学校から出たのをつけてきたんですね。駅の構内で取り囲まれて、『カトリックの神学生ですか?』って聞かれたんで『そうです』って答えたら、『私たちは正しい聖書信仰に立つ福音主義のクリスチャンです。カトリックは聖書にないことを教えています。あなたは考えを改め、正しい教えを信じるべきです』って、まあ、凄かった。『いや、私は、カトリックの教えを信じているからカトリック司祭になろうとしているんです』って答えたら、『ではお聞きします。神の義とは何ですか』って聞いてくるんです。そんなこと、とても一言では答えられないでしょう。だから、どう答えようかとしばらく考えていたら、『ほら、答えられない。こんな基本的なことさえすぐに答えられないなんて、やはりカトリックは間違っている』って、責められましたよ。あの人たちは、自分たちの問答集のようなものを暗記しているみたいで、こう聞かれたらこう答えるという答えを持っているんです。そして、すぐにその通りに答えない人を間違っているって決めてかかるんです。凄かった」
私の後輩にもやられた人がいるから、「正しい聖書信仰に立つ福音主義のクリスチャン」たちは、けっこうやってるんだなあ。
折伏ですかね。
マイナスの伝道なのに。
カトリック教会の前でミサが終わるのを待って、出てきた信者にマリア崇敬を攻撃するプリントを配り始めた「福音派」の人たちもいるそうですから、すごいなあ。たぶん、自称「福音派」のカルトでしょうけれど。
出典:https://blog.goo.ne.jp/hougensinpu321/c/8a7910373cf4506b82aab6740daf8633
人を取り囲んで責め立てる人たちも使っている新改訳聖書だから、とても悪い印象を持っている人もいます。私も一時、読むどころか、さわりたくもないくらい腹を立てました。でもそれは訳文のせいではなくて、使う人たちの問題なんですけどね。それも、一部の人たちです。福音派には良識のある人がたくさんいます。
新改訳聖書は福音派独自の訳で、福音派・聖霊派以外はまず使わない、とか、
極端な原理主義者やカルトも使っている、とか、
学術的には相手にされていない、とか、
著作権にはやたらうるさいので、引用は気をつけないといけない、とか、
いろいろ言われますけれど、それでも私は、新改訳のイエス様のていねいな言葉づかいが好きですね。
日本聖書協会が『聖書協会共同訳』を出しましたが、イエス様の言葉が「である」調で、これには失望しました。戦後間もない頃の口語訳ならともかく、今も「である」とは・・・・。翻訳の良し悪しではなく、この言葉づかいで買う気が失せました。(ちなみに、『新改訳2017』は買いました。新約にもツァラアトはないだろう、って、不満もありますけど。)
いつの日か、福音書に記されたイエス様の言葉を訳したい。おそらくイエス様の口調はこんな感じだったのではないかと思える言葉で訳したい。
そんな夢があります。
(伊藤一滴)
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