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止められなかった「献身」

1980年代の話です。その人はKさんという女子学生で、年は私より2つ上、課外活動で知り合いました。

Kさんは、本当に優しいお姉さんでした。面倒見のいい人で、私は彼女のことを尊敬していました。

Kさんは卒業して役所の職員になり、私はまだ在学中で、2年ほど会わなかったのですが・・・・。

2年後、たまたまKさんに会いました。なつかしくて声をかけたら・・・・。

驚きました。彼女は別人のようになっていました。あの優しいお姉さんの目ではなくて、何か、とりつかれたように光る目というか、別人のような目になっていました。

挨拶程度の雑談したあと彼女は私に言いました。

「伊藤君、私、献身することになりました」

「はっ? どういうことですか?」

「牧師になるんです」

「牧師って、あの、今のお仕事は?」

「もう公務員をやめました。献身の準備をしています。決めたんです。私は、イエス様の愛に満たされて、心がいっぱいなんです」

「あのう、教派は、どちらです?」

彼女が言う教派はまさに、「聖書を文字通り正しく信じる正統プロテスタント」と称する、排他的で攻撃的な人たちの「教会」でした。

学生の頃のKさんが聖書やキリスト教と何か関わりがある気配は、まったくありませんでした。当時から私は聖書マニアでしたから、もし話の中に聖書的な影響を少しでも感じれば気づいたでしょう。それが原理主義(あるいはカルト)なら、私も思うことを言ったでしょうに。

たぶん、Kさんは卒業して働くようになってから、何かの理由で「教会」に通い始めたのでしょう。

まじめで優しかったKさんが、そんな「教会」に行ってたなんて、しかも、もう仕事もやめて、「献身」して牧師になると決めていたなんて、知らなかった・・・・。

「あのう、Kさん。キリスト教と言ってもいろいろな教派があります。よくお考えになったほうがいいと思いますが・・・・」

「私、もう決めたんです」

たまたま私の鞄の中に、無教会の本と、フランシスコ会聖書研究所訳注「新約聖書」がありました。私はそれらを取り出して、

「こういう見解もあるんです。よかったら、読んでみてください。キリスト教にはいろいろな教派があって、見解もいろいろで・・・・」

彼女は私が手渡した本をぱらぱらとめくり、

「私はイエス様の愛に満たされていますから、それが何より大事なんです」

そう言いながら本を閉じて私に返し、

「伊藤君。あなたも私のために祈ってください」

と言いました。

祈りますとも、Kさん、あなたが目を覚ましてくれるように、祈りますとも。そう心の中で思いながら、私はさらに説得を試みたのですが、駄目でした。彼女は、もう、完全にとりつかれているようでした。

これがもし日本基督教団などの普通の教会や、穏健な福音派の教会なら、私はKさんの献身の決意を心から祝福したでしょうに。

その後、音信不通になりました。彼女に会ったのは、そのときが最後です。

(伊藤一滴)

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