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アーミッシュの生き方と、他のキリスト教や他の団体

お会いしたことはありませんが、先日、アーミッシュのことを少し書きました。
あれから、アーミッシュの生き方と、他のキリスト教の教派や他の団体のことを考えていました。

たとえば無教会。
内村鑑三は、「読むべきは聖書、学ぶべきは天然、為すべきは労働」と主張しました(「聖書之研究」95号「所感」1908年)。
内村の影響を受け、農業や牧畜の道に進んだ人たちもいます。
天然自然に囲まれた中で暮らし、自然から学び、労働し、聖書を読む、そうした生活にキリスト教の理想を感じた人たちがいます。さらに加えるなら、祈りと沈黙と対話の時があります。

カトリックの修道会、特に観想修道会の場合、祈り、観想、労働を中心とした生活に生涯を捧げることになります。この場合は生涯独身で、基本的には修道院(広い農地や作業所を持つ修道院もある)の中での共同生活となりますが、修道者の生き方にも、アーミッシュや無教会と重なる部分があるように思います。

では、ヤマギシ会(正式名称は、幸福会ヤマギシ会)はどうなのか。
これは日本型のアーミッシュ的な活動なのでしょうか?

ヤマギシ会の理念は、会の公式ホームページに書いてあります。
http://www.koufukukai.com/rinen.html

彼らは、自分たちの主義をヤマギシズムと言うのですが、私には、どうも、マルキシズムの亜種のようにも思えるのです。
ううむ・・・・。

「すべての人が幸福である社会」を実現することは、「人間の知能により科学的に可能」といった考えは、やはり、マルクス主義を思わせます。マルクス主義と違うのは、暴力革命によって資本主義を倒しプロレタリア独裁国家を樹立するといった考えを持たない点でしょうか。
マルクス主義から暴力性と工業生産性の重視をなくし、人智によって、有機農業と、養鶏や牧畜に立脚した貨幣不要の理想社会を実現する、といった考えのようにも思えます。

理想の共産主義社会を目ざしたはずのマルクス主義国家の破綻は、「人智の限界」ではなかったのでしょうか。
理想の共産主義は、地上のどこにも実現できませんでした。

人智で、「すべての人が幸福である社会」を実現できるのでしょうか。

「自然は完全なものとして完成しているが、人為(人の為すこと)は有限である」という、福岡正信氏の主張を思います。

私自身は、天然自然に学び、人間の限界や人智を超えた働きを感じながら生きていきたい。
自然の恵みに感謝し、労働、沈黙、思索、対話、祈り・・・・などを尊重したい。
有限な人為で、どこまでできるのか、どこまで人為を善用できるのか、祈りながら考えたい。

自分の思考がそうなっているのかもしれませんが、アーミッシュや無教会やカトリック修道会に近親感を覚え、ヤマギシ会とは、距離を感じてしまうのです。

まだまだ思索の途中です。

御参考に、高田かや『カルト村でうまれました。』(文藝春秋、マンガです)他、高田かや氏の本が出ています。

(一滴)

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