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非神話化 補足

前回と一部重複もありますが、補足します。

イエスは実在の人物です。ドレウス(=ドレフス)の『キリスト神話』のように、イエスの実在を否定する見解もありますが、支持されません。もしイエスが架空の人物なら、なぜキリスト教が生じたのかの説明が困難ですし、わずかな言及とはいえ1世紀のヨセフスやタキトゥスらの記述がある以上、架空の人物と考えるのは無理があります。

ただし、歴史的事実としてのイエスがどのような人であったのかは、ほとんどわかりません。史料が少なすぎます。
新約聖書のイエスは、神話的な世界観の中で生きていた古代人が、「イエスはキリストである」と信じる立場から描いたキリストとしてのイエスであり、歴史的事実としてのイエスではありません。

イエスは実在の人物ですが、イエス自身が書いたものは何も残っていません。イエスに直接会った人たちが、その時すぐに書いたものも残っていません。イエスの著作はもちろんイエスの発言の速記録のようなものは何もないのです。イエスの教えやわざは伝承されて、後の書簡や、「イエスはキリストである」という立場からまとめられた福音書が残りました。

イエス自身もイエスに会った人たちも、その後の伝承の担い手たちも、新約聖書の文書を執筆・編集した人たちも、みな古代人であり、神話的な世界観の中で生きていました。天界、地上、下界という三層からなる世界は、当時の人たちの前提でした。私たちとは世界観が違うのです。中世の時代ならともかく、今の私たちは、彼ら古代人と世界観を共有できないのです。

今でも、次元の違う世界として、死後や霊の世界を信じている人はいます。でも、どこそこにそれがあると具体的に信じているわけではありません。ロケットに乗って大気圏外へ行っても、そこに天界があるわけではないし、地面をどんなに深く掘っても下界があるわけではないことを知っています。

古代人は、どんどん空高く昇れば本当にそこに天界があり、どんどん地面を掘っていけば本当に下界があると信じていました。天界は神様や天使の世界で、下界は悪魔や悪霊の世界と信じられ、天界の勢力も下界の勢力も地上を行き来して人間に影響を与えると考えられていました。

私たちは、そういう具体的な世界を信じていないのに、そう信じていた人たちが書いた聖書を「文字通り信じる」ことができるのでしょうか。
文字通り信じるなら、神話的世界観も信じないと矛盾します。

正統キリスト教の証しとされる使徒信条(信仰告白、以下に引用)もまた、この三層の世界を信じていた古代人の証しです。私たちは彼らと世界観を共有していないのに、「使徒信条を信じます」と言って信仰を宣言できるのでしょうか。

使徒信条
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれ、
ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、
死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人の内よりよみがえり、
天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり。
かしこよりきたりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。
我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、
からだのよみがえり、とこしえの命を信ず。
アーメン
 
「今日、信仰告白をするものが、この定式の根底になっている三階層の神話的世界像を、もし信じていないならば、『陰府にくだり』とか、あるいはまた『天にのぼり』ということを、今日告白するのはいかなる意義をもつであろうか。」(ブルトマン『新約聖書と神話論』山岡喜久男訳)

この信条の中で、歴史的事実と断言できるのは、イエスはポンティウス・ピラトゥスの時代に苦しみを受け、十字架につけられて死んだということくらいです。

大気圏外まで行っても天界はないし、地面をいくら掘っても下界はないことが明らかになった以上、文字通り信じる信仰の時代は終わったのです。

イエスの不思議な誕生や奇跡もそうですが、死んだイエスは復活したとか、やがてイエスは再臨するといった話もみな古代人の世界観による証言(神話的な創作)ですから、それをそのまま信じる時代は終わったのです。

リベラルな立場の牧師や司祭であれば、私が上に書いたようなことは当然知っています。
でも、一般信徒には語りません。信徒の中でもある程度勉強した人なら知っているでしょうが、語りません。聖書を文字通り信じる人を混乱させることを恐れているのでしょうか、「教義に反する」と言われるのを恐れているのでしょうか。
二重基準です。

古代や中世の世界観のもとで明文化された教義もまた非神話化の対象であろうと私は思うのですけれど、今でも「嘘も方便」のような方便が一般信徒のレベルであり、上級者とは二重基準になっているのです。

プロテスタント教会にはカール・バルトに傾倒している人たちもいて、この人たちも史的イエスや高等批評について語りたがりません。どうもバルト派は歴史の事実から逃げているのではないか、そんなふうに見えてしまいます。

今後も、非神話化の問題は避けて通れないし、実存論的理解についてのさらなる検討も必要でしょう。
キリスト教が未来に進む宗教であるために。

(伊藤一滴)

補足:こういうことを書くと「あなたはキリスト教を否定している」なんて言われるんですが、キリスト教を否定したことはありません。私が否定するのは、キリスト教を自称する原理主義やカルトです。

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