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聖書の非神話化と実存論

今から何百年も経てば、未来の人たちから、
「聖書は、書かれた時代の表現であるが、同じように20世紀の非神話化も、20世紀の世界観による表現であり、時代の制約の中で主張されたものである」、「その当時はまだ、~について解明されていなかったし、~の存在も知られていなかった」なんて言われてしまうかもしれませんね。そんな先のことは、まあ、よくわかりませんけど。

さて、続きをもう少し書きます。

その前に、ひとこと。

ブルトマンの主張を自由主義神学と呼ぶ人がいますが、これは、キリスト教の原理主義者や超保守派が使う独自の用法です。仲間内で使われる特殊な用法を一般的な世界に持ち込んでほしくないのですが、そういう人たちが、インターネットに盛んに書き込んでいるため、キリスト教の用語を調べるとき、ネットの記述は「要注意」です。用語によっては使えません。みんなが使うネットに特定の宗教的立場から一方的に書き込むのはどうかと思いますけれど。

アメリカ帰りの人が「日本の福音派は、福音派と言うより原理主義ではないのですか」と言うので、「どうしてそう思うのですか?」と聞いたら、「日本語版ウィキペディアを読んでそう思いました」とおっしゃっていました。
日本の福音派の方々、そんなふうに言われてしまう状況をなんとかしてもらえませんか。

福音派の中に、どちらかと言えば「知的で穏健な人」と、「きわめて保守的な人」がいます。後者が特に極端になれば、福音派というより、自称「福音派」の原理主義者やカルトになってしまいます(ただし、中間的な状態もあり、白黒きれいに二分されるわけではありません)。今、日本で福音派と名乗る人の中では、「きわめて保守的な人」のほうが強くなってしまったのでしょうか。「知的で穏健な人」と「きわめて保守的な人」は、一見似ているけれど異質です。両者が同じ組織に加わって同じ活動をするのは無理があるように思います。

つまり、

知的で穏健な福音派→きわめて保守的な福音派→福音派と称する原理主義者→狂信的な聖書カルト

このようなイメージで、間にはっきりした線引きはありません。

さて、
ブルトマン自身は自由主義神学の時代に学んだ人ですが、自由主義神学が人間の理性に重きを置いて、歴史的事実として存在したイエスの姿を明らかにしようとしたのに対し、ブルトマンは、それは不可能と考えました。(実際のところ、ブルトマンが主張した通り、史的イエスを明らかにするのは今でも不可能です。)
彼は、聖書に書いてあることを書いてあるとおりに信じるという意味での正統主義神学に対する批判者であり、また、理性によって聖書の事実を明らかにしようとした自由主義神学に対する批判者でもありました。

「聖書に書いてあることを書いてあるとおりに信じるという意味での正統主義神学」は古代や中世の人には通じても、現代の世界観のもとでは成り立ちません。これを成り立たせようとすると、「聖書の年数を計算すると紀元前4004頃に天地が創造されているから、それ以前には地球も太陽もなかった。人類を含め、すべては紀元前4004年頃の6日間で創造されたのであるから、それ以前には存在していない。もっと前にも人間はいたとか、何億年も前に恐竜がいて、人間が現れるずっと前に絶滅したといった話はみな、聖書の教えに反している。人も恐竜も同時期に創造されて同じ時代を生きたのだ。恐竜はノアの方舟の洪水で滅んだのだろう。聖書に反する歴史、宇宙論、古生物学など、全部嘘だ。国は税金を使って嘘の研究をし、嘘の教育をしている」みたいな話になってゆくんです。

今でこそ、各大学がカルト対策に取り組んでいるようですが、1980年代半ば、そういう対策や相談窓口もありませんでしたから、学生だった私は、学内で、大真面目にそういう「無謬である聖書の権威」を信じるたちから取り囲まれて、一方的に議論をふっかけられ、ひどい目にあいました。彼らは恐ろしい聖書カルトでした。私が聖書について思うことを説明しようとしても、まったく聞く耳を持たない人たちでした。左翼の過激派学生より怖い目つきの人たちでした。彼らは、何を言われてもびくともしない確固たる信念を持っていました。それは信仰というより、マインドコントロール下にあった、ということなのでしょう。今、どこでどうしているのでしょうか。どこかで気がついて、目を覚ましているといいのですが・・・・。

ブルトマンの、歴史的・批判的な新約研究を「タマネギの皮むき」と言う人もいますが、誤解です。それはブルトマンの立場からの自由主義神学に対する批判なのです。自由主義神学のように、人間の理性で聖書をむいていっても「タマネギの皮むき」と同じでどこまでむいても芯はない、ということなのです。しかも、タマネギをどんどんむいたりしたら、おいしい部分まで捨ててしまうことになります。

ではどのように聖書を解釈すべきなのかというと、ブルトマンは非神話化と実存論を提唱します。自由主義神学が古代人の神話的な要素を取り除いてイエスを描こうとしたのに対し、神話とケリュグマ(宣教の使信)は切り離せないものとして、神話的表現を再解釈することで、本来のケリュグマを回復させるという主張です。

書いている私が自分で思うんですが、難しい話ですね。
こんなふうに、現代神学があまりにも難しくなってしまったから、現代の教会は、「嘘も方便」のような二重基準になってるんです。「一般信徒の方は方便を信じていれば十分です。専門家になる方は現代神学を勉強してください」みたいな。「ブルトマンやその後の研究者の聖書学や神学の見解を知っている方は、一般信徒にはそういう話はしないでくださいね。つまづきになりますからね」みたいな。
なんかそれって、「医学的なことは医者に任せておけばいいんだ、患者は余計なことを考えるな」という雰囲気の、ひと昔前の病院のような感じがするんですけどね。

ブルトマンがドイツのマールブルク大学で教えていた頃、同じ大学に哲学者のハイデガーがいました。ブルトマンは、ハイデガーの言う実存論を聖書解釈に取り入れたのです。このハイデガーがまた、難解の極みですけど。

哲学の難解さは、それ以前の哲学を批判的に克服しようとするものだからでしょう。それ以前の哲学の解説がないままに克服が論じられるから、何が何だかわからない話になってゆくのです。

私もそんな、専門的なことを知っているわけではないので、一般に言われていることを平たく書きますが、人間存在とは、存在を問い続けることができる存在であり、ものごとの存在とは異なる真の人間の存在である、これが実存である。真の人間は絶えず決断の状況に置かれ、不断の決断によって自らの真の存在を確かめなければならない、ということのようです。

新約聖書解釈に応用すれば、こうでしょう。神話的世界観の中で生きていた古代人は、神話的な表現で実存を示した。我々はそこから正しく現代に通用する実存を読み取らなければならない。

私の理解だと、聖書は、事実と神話が織り込まれた布のようなイメージです。分けようとしても、分けられず、無理に分ければ裂けてしまい、布として使えなくなるのです。そもそも分けられないし、分けることに意味もありません。

ただ、常識的に考えれば、神の子イエスは天地創造の前から存在していた、といった話は神話です。イエスは処女マリアから生まれたとか、奇跡で病気を治したとか、湖の上を歩いたとか、食べ物を増やして5千人に与えたとか、死んで3日目に復活して現れたとか、天に昇って行ったとか、みな神話です。神話だから意味がないのではなく、古代人が神話で語った話を非神話化して実存を読み取ることが必要になります。

う~む、十字架の贖いも、神の啓示も、聖霊の働きも、神の存在それ自体さえ、みなことごとく神話なのでしょうか。
それらも含めて、みな非神話化の対象なのでしょうか。

結局、キリスト教の信仰って何だ、という話になります。
ブルトマンのように新約聖書を徹底的に切り刻むように調べ上げ、それでなお信仰を語るなら、その信仰は高度な抽象論になってゆきます。

抽象論なのです。なんか、カトリック教徒が、「聖体」(聖餐式のパン)をキリストの体そのものと主張するのを聞いているような感じです。パンならばまだ見えますが、信仰は見えません。あまりにも抽象的です。

大事なのは実存なら、客観的な事実の価値はどうなるんでしょう?
いろいろ、疑問も出てきます。

それに、ブルトマンの主張に沿った形でキリスト教を宣教して、理解して信仰する人って、いったいどれくらいいるのでしょうか。大学の哲学科などに少しいるのでしょうか。

私も庶民の一人ですが、庶民にどう福音を伝えればいいのですか。高度な教育を受けた人ではなく、普通に社会に出て普通に働いている、そういう、ごくごく普通の人に、どう福音を語ればよいのですか。
一般には、「嘘も方便」でしかたないのですか。

私はまだ、思索の途中です。

明らかな嘘を、嘘と知りつつ書いたりはしませんが、素人なもので、不十分な点、不十分な表現はお許しください。

(伊藤一滴)

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