自分の頭で聖書を読まない「熱心な信者」たち
原理主義者や聖書カルトは、自分の頭で聖書を読まない「熱心な信者」たちです。熱心に聖書を読みますが、自分の頭で考えず、言われたとおりに信じて、自分たちは真理の側にいると思っています。なにしろ真理の側ですから、気分は高揚し、居丈高になります。この高揚感を「聖霊の働き」だと感じて、ますます自分たちは正しいと思いこんだりします。そして、「救われていない人たち」(自分たちのグループの外の人たち)を蔑みの目で憐れむのです。
「私たちは罪びとです」なんて口では言いますが、全然低姿勢ではありません。「救われていない人たち」に対して完全に上から目線です。なにせ自分たちは真理の側ですから。
立場が異なる他者と対話して学ぶこともありません。真理の側にいる自分たちが、不完全な他者から学ぶことなど何もないのです。対話しないので、相手を誤解し、誤解したまま自分たちの思い込みで相手を非難します。非難された側が、「それは違います、こうです」と答えようとしても聞く耳を持ちません。一方的に非難をぶつけておいて、聖書の正義で悪を成敗する高揚感に浸っているのです。
そうした言動を非難されると、「私たちは正しいから弾圧されている」「イエス様が迫害されたように私たちも迫害されている」などど言って、ますます熱心になります。
そんなのは、真理でも、正義でも、聖霊の働きでも何でもありません。宗教カルトの発想です。
カルト化が進むと、他の宗教カルト同様に、ボスの君臨(パワハラやセクハラの横行)、高額な献金の要求と不明朗な経理、指導者の異性問題などが起きてきます。聖書が改竄されることもあります。
原理主義者や聖書カルトからよく攻撃されてしまうのが、人のいいカトリックの信者です。人がいいから、キリスト教と聞くと相手を疑わないのです。
多くのカトリック信者はプロテスタントの教派の見分けなどつきません。以前プロテスタントの人から親切にしてもらったから、みんなそんな感じだろうと思って話しかけたら、いきなり取り囲まれて怖い目で議論を吹っかけられたりして、「なんで~???」になるんです。
原理主義者やカルトは「私たちは聖書に書いてあることを、書いてある通りに信じています」と言いますが、自分の頭で聖書を読んだり、自分で考えたりしていないから、多様な意見も多様な発想もないのです。それがあれば、そもそも、原理主義やカルトにはならないのです。
どこを切っても同じ顔が出てくる金太郎飴のように、彼らの主張が不気味なほど一致するのはなぜでしょうか? それが「真理だから」ではありません。それは、ある種の「神学者」や「牧師先生」の見解のコピーだからです。つまり、ネタ本があるからです。
特定の出版社から出されているネタ本類や特定のサイトに見られるネタのもとになっているのは、おそらく、原理主義者やそれに近い人たちが過去百年以上積み重ねてきた理屈(というより屁理屈)の体系でしょう。20世紀の初頭から、彼らは、「非科学的だ、反知性的だ」と馬鹿にされながら、こう言われたらこう切り返す、こう問われたらこう答えるという、スコラ学も顔負けの体系を作ってきました。それをうまく抜粋・要約してくれる「神学者」や「牧師先生」の見解がコピーされるから、みんな同じようなことを言うようになるのです。
指導者がカルト化すれば信者もカルト化します。指導者に疑問を感じても、それはサタンの誘惑だと打ち消してしまいます。
普段から、自分の頭で考えていませんから。
彼らは、「カトリックは聖書以外の聖伝を信じているから誤りだ」などど言いますが、自分たちも、ありがたい「神学者」や「牧師先生」の主張を聖伝のように信じています。むしろ、ありがたい主張は「聖書以外の聖典」のようなものかもしれません。
それは、聖書への服従ではなくある種の聖書解釈への服従です。
目を覚ましてください。
(一滴)
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