神が存在すると言う前提 クリスチャンに感じた違和感
この夏、誘われて、複数のキリスト教の教会や集会を訪れました。
私は幼い頃から聖書を愛読してきましたし、今も愛読しています。
学生の頃は、いろいろな教派の教会に行って話を聞いていました。
クリスチャンの大多数はいい人です。なんでこの人はこんなにいい人なんだと思うような、底抜けにいい人もいます。
三浦綾子『道ありき』に出てくる前川正さんや三浦光世さんらの言葉や行動を読んでいて、「そうそう、クリスチャンてこんな感じだな」と思いました。
(例外は、自称「クリスチャン」(多くは自称「福音派」)の原理主義者やカルトです。彼らは自分たちの外の世界はサタンの支配下にあると考えているようで、他の教派や非キリスト教への敵対心が強く、最初はニコニコ話しかけてくるのですが、こっちが思っていることを正直に言うとにらみつけてきます。この人たちとの対話は難しいです。)
キリスト教の教会や集会でいろいろなクリスチャンたちとお話ができて、楽しく過ごしてきました。福音派の人たちにも会いましたが、話のわかる人たちでした(つまり原理主義者やカルトでない人、それが普通)。
私は、聖書のことも、クリスチャンの発想も、おおよそ見当がつくつもりでいたのですが、一つだけ違和感がありました。それは、クリスチャンたちが(その人が福音派であれリベラル派であれ)、神の存在を当然の前提として話をすることでした。まあ、私のことを普通のクリスチャンの一人だと思い、仲間だと思ったからかもしれませんが。
考えてみれば、クリスチャンが神の存在を前提として話をするのは当たり前のことなのでしょう。キリスト教の神を信じているから、クリスチャンなのですから。
私は、キリスト教の神が存在するのか否かは証明のしようがないことだと思っています。だから、神の存在を当然の前提とすることに違和感があるのです。
普遍的な経験から証明できないことを認識の対象にはできないはずです。多くの人が神を感じ、神を信じて生きてきたし、今も信じている、だから普遍的な経験だと言えばそうかもしれませんが、客観的に神の存在を証明できない以上、認識の対象にはできないだろうと思うのです。
私が聖書やキリスト教について何か書くときも、「もし神というものが存在するのなら~」みたいな書き方になります。クリスチャンの中には「もし神が存在しないなら~」という想像ができない人もいるようですが、私は、神が存在しないのならどうなのかと考えてみることもあります。
でも、私は神の存在を頭から否定しているのではありません。神の存在を否定してしまうと説明の難しいことが人類の歴史的経験や証言の中に多数あるのも知っています。
それに、神というものをどう定義するのか、そもそも定義できるのかという問題もあります。
仮に何らかの定義をしたとして、その神が存在するのか否かも証明できませんし、(無理だとは思いますが)仮に証明できたとしても、そもそも人間のちっぽけな頭で、神のような壮大なものをきちんと認識できるのだろうか、と思えてしまうのです。
神を信じる人たちの良心的な言動を通して、神の存在を感じる、と言うことは出来ます。
また、原理主義者やカルトの恫喝的で破壊的な言動を通して、彼らが言う意味での「神」の存在を感じない、と言うことも出来ます。
(一滴)
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