現代のプロテスタントは、何にプロテストすべきなのか?
そもそも、中世末のカトリック教会があまりにも腐敗していたから、その腐敗への抗議(プロテスト)としてプロテスタント教会が成立したのではなかったのか。
当時のカトリック教会への抗議の中で、ローマ教皇の権威を認めないなら何を権威とするのか、というときに、「聖書のみ、信仰のみ、恩寵のみ」の3つが掲げられた。
私が学生のとき、ある集まりで、カトリック信者が言った。
「現代のプロテスタントの人たちは何にプロテストするのですか? 私たちはもう中世のカトリックではありません」
たしかに、今、そして今後、プロテスタント教会は何にプロテストするのだろう? その発言を聞いていたプロテスタントの人もいたが、きちんと答えられる人がいなかった。
別な人が言った。
「プロテスタントの諸派に、何か共通点はあるのですか。カトリックではないという、この一点だけではないのですか」(発言者はプロテスタント信者)
これにも、きちんと答えられる人がいなかった。
カトリック教会に自浄作用が働き、かつての腐敗を改め、プロテスタントと同等かそれ以上に改革が進んでいるとしたら、プロテスタントは何のために何に対してプロテストするのか。プロテストすることが自己目的で、それがアイデンティティーであり、もう相手がいなくても、いない相手に向けてプロテストし続けなければならないのか。「16世紀のカトリック教会は腐敗していました」と、カトリックの人も言っているのに。
「聖書のみ、信仰のみ、恩寵のみ」は、カトリック教会が腐敗した歴史的状況の中で掲げられた主張ではなかったのか。この主張を、「イエスが人々に伝えようとしたメッセージ」と同一視すべきではない。
ルターの宗教改革は、もともとは、カトリック教会内部の改革を目ざしたものであり、教会を独立させる意図はなかったという。ルターが1517年10月31日に発表したとされる九十五箇条の提題は、カトリックの神学に反するものではなかったのに、当時のカトリック教会に受け入れられず、教会は分裂した。
これも私が学生のときの話だけれど、九十五箇条の提題を読んだカトリック信者の学生が言っていた。
「これ、今なら、カトリック信者は誰も反対しないと思うよ」
「プロテスタント(抗議者)」は、すでに歴史的名称となっているのではないか。第二バチカン公会議を経た今日のカトリック教会は、プロテスタントの敵でも対抗勢力でもなくなって、共に聖書を学び、共にイエスに従おうとする者となっている。
今、世界の各地で、両者は同じ翻訳の聖書を読み、共に祈っている。伝統の違い、考え方の違いはあっても、同じ聖書、同じイエス・キリストに従おうとすることに何の違いもない。
今日、プロテスタントが真にプロテストすべき対象は、カトリック教会ではなくて、世界の各地で起きている人間性を否定するような現実ではないか。これはプロテスタントのみならす、良心に従って生きようとするすべての人にとってプロテストすべきものであろう。
私を含むこの社会の罪、この世界の罪が、世界の各地で、いと小さき人たちに過酷な苦しみを与えている。
プロテスタントもカトリックも非キリスト教徒も共に祈りながら、世界の現実に向き合ってゆくべきではないのか。
(伊藤一滴)
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