現代の「自由からの逃走」
とうとう「共謀罪」まで成立し、落ちるところまで落ちないとこの国は目を覚まさないのか、という思いです。この法律自体も制定過程も問題だらけで、自公維新に対する批判は、新聞やネットに出尽くしている感じです。(読売や産経などの御用新聞以外はちゃんと報道しています。)
日本もアメリカも、「正」も「誤」も対等、いや、明らかな「誤」のほうが勝つような、そんな国になってきました。
なぜなら、「誤」を大衆が支えているからです。
大衆は現実を直視しようとせず、ここちよい嘘を言う政治家を支えるのです。
これは、かつてエーリッヒ・フロムが『自由からの逃走』で指摘した、ナチスを支えた大衆の心理と 似ています。(日高六郎訳で以前から日本語版が出ています)
下記は、たまたま見つけたもので、高校生向けの解説のようですが、『自由からの逃走』がわかりやすく要約されており、おすすめです。
フロムも時代の子であり、彼の主張がすべて正しいなんて言いませんが、かなりの点で当たっているんじゃないかと思います。
フロムが指摘した、ナチスを支えた大衆の心理は、まさに今の日本やアメリカの大衆を思わせます。そしてこの心理は、空気を読みながら権威主義的に見える側につき、自分も権威主義的に他民族や他宗教を侮蔑する人たち(ヘイトスピーチ団体など)に通じるように思えます。それは本当の権威ではないし、本当の右派でもないのですが、右派を装って権威的に振舞うのです。
今は、フロムの時代とは違い、権威主義的性格傾向が特定の社会階層を越えて広がっているようです。自由な個人であることに苦痛を感じている人が広範囲にいて、中に、自由から逃げ出して群れている人たちがいます。たとえば「日本人であること」や「アメリカの白人であること」に優越感や連帯感を感じ、集まって来るのです。そんなのは、たまたまそう生まれただけで、考えてみれば優越でも何でもないのですが、彼らは自由から逃げ出し、理性的に考えることからも逃げ出しているのです。ナチスを支えた人たちと、なんと似ているのか。
私はずっと、個人の自由は大切なものであり、価値あるものだと考えてきましたが、世の中にはそう考えない人たちもけっこういるようです。
これは、収入も無関係ではないのでしょうが、私は、収入どうこうより、自分を客観化できる人・相手を尊重し他者との共生を願う人・理想や信念を持つ人にとって個人の自由は大切なものであり、そうでない人にとって、自由なんて苦しいだけで価値がない、それより権威に従い自分も権威的に振舞いたい、ということなのかと思います。あるいは、前者は自分の考えで立つ人、後者は空気になびいていく人、とも言えるでしょう。
たぶん、こういう批判があるでしょう。
「たまたま裕福な家に生まれて親のお金で教育を受けた人たちが、理想がどうの信念がどうのと語っている。たまたま教養ある親のもとに生まれて外国人や他宗教の人とふれあう機会があった人はそういう感覚を身につけている。そんな人たちが、個人の自由は大切だとか理性的に考えるべきだとか言っている。しかし、広い視野を身につけるチャンスなどないまま育ち、今、日々の生活に追われている人にとって、自由がどうの理性がどうのといった抽象的な言葉などどうでもよい。アベノミクスで経済が良くなるのを期待して何が悪い。自民党を支持して何が悪い」
さて、どう答えましょう。
(伊藤一滴)
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