無教会の方々とお会いして
機会があって、また無教会の方々とお会いしてきました。
話しをして、心が洗われるような思いがしました。帰り道、赤や黄色の紅葉の輝く道を車で走りながら、この世界は美しいと感じました。無教会の方々の寛容精神、相手を思いやる態度を思うと胸が熱くなり、車の中で、涙が出てきました。
他のキリスト教の教派の信者や仏教徒にも、とてもいい人がいますが、無教会の人たちも、ほんとうにいい人が多いです。ああいう人たちと一緒にいると、私も正直になって、心の思いが口から出てきて、つらかった時のことを思い出したり、自分のいやな面に気づいたりして、泣きそうになるのです。今の世の中は「はい次、はい次」みたいなのが多いのですが、あの人たちは、私が考え考え心の思いを話すのを、最後まで聞いてくれて、ていねいに答えてくれました。
無教会に入信? いえいえ、そもそも無教会に入信の形があるのでしょうか。教会であれば洗礼を受けて所属教会の名簿に記され、教会の礼拝に出席し献金をし、教会の一員として聖餐を受けるのでしょうけれど、無教会にはそのようなサクラメント(聖礼典)の形はありません。だから、無教会の信仰というのは、キリスト教の本質的な部分(と考えられる部分)だけを残して他をそぎ落とした信仰とも言えます。それは、かなり高度で、かなり知的な営みだと思います。
無教会はキリスト教の中の1つの教派ではなく、主義なのかもしれません。主義であると考えれば、その人の所属に関わらず、主義を受け入れるのは可能です。全面的にでなくとも、あるところまではその主義を自分の信条とするというのもありえるわけです。そんな半端なのは無教会じゃないと言う人もいるかもしれませんが、じゃあ本当の無教会とは何かというと、形を示すのは難しいです。
私は、若い頃、内村鑑三の本を読みふけりました。今読むと、文語体だったり文語調だったり現在とは単語の意味が違ったりして、けっこう難しい文章もあります。こんな難しいものをよく読んだものだと自分でも思います。自分の程度も限界もわからなかった10代の末から20代の初め、聖書と内村鑑三の著作を、乾いたスポンジが水を吸うみたいに心をひきつけられて読みふけっていました。そうした影響もあるのかもしれませんが、無教会に近い思いが今も私の心にあります。
私はかつて仙台の福音派の牧師から、愛知のカトリックの司祭から、また多くのプロテスタント、カトリック、仏教の信徒から、最近は無教会の方々から、大きな、心の恵みを受けました。(あるいは、神というものがおられるのなら「そうした人たちを通して神の恵みを受けた」と表現することもできます。それは、特定教派の教えではありません。)
今、自分が受けてきた大きな恵みの数々を思いながら、自分が出会う人たちに少しでもかえしていきたいという思いです。そうすることが、私に親切にしてくださった方々への恩返しであり、私自身を向上させる道だとも思うからです。
(伊藤一滴)
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