それは怒りよりも深い悲しみだった(後藤健二さんの訃報)
後藤健二さんが殺害されたようだというラジオのニュースを聞いたとき、どうしてそんなことになったのか、と思った。彼はイスラム教の敵ではないし、自称「イスラム国」の敵でもないはず。それなのに、なぜ? わけがわからなかった。
首相は、「イスラム国」を挑発するような発言を繰り返していた。この人は、なんでまた不適切なことを言いまくるのだろう。
もし本当に神様がいて、本当に天国というものがあるのなら、もう後藤健二さんのために祈る必要はない。後藤さんは天国の人なのだから。神様のもとに行った人なのだから。むしろ、日本の首相やその仲間たちのためにこそ祈るべきだ。彼らは、一歩また一歩、滅びへの道を歩んでいく。日本を道づれにして。彼らのためにこそ祈るべきだ。そんな思いだった。
数日が過ぎた。後藤健二さんの業績がいくつも報じられた。著書も売れているという。でもきっと彼は、自分の業績が讃えられることより、多くの人に世界の現実を知ってもらうことを望むだろう。新聞やネットが報じる後藤さんの言葉の数々から、平和への願いが伝わってくる。その願いを、私たちも共に願うなら、彼は私たちと共にある。そういう意味で、後藤健二さんは、永遠の命の人となった。神様が、いても、いなくても。
人が死ぬ場面など、見たくもないし、実際、私は、後藤さんが死に臨む姿を見てはいない。そのような映像をシェアしてはいけない。ネットの画像を見たのではなく新聞報道で読んだのだが、後藤さんは目を閉じて、祈るように殺されていったという。
取材の時はいつも聖書を持ち歩いていたという後藤さんは、死を前に何を祈ったのだろう。「主よ、私の魂を御手にゆだねます」と祈ったのだろうか。「主よ、この人たちをお赦しください」と祈ったのだろうか。日本に残してきた妻や幼い娘たちのことを思ったのだろうか。
それは怒りよりも深い悲しみだった。天国の人のために祈る必要はない、本当に神がおられるなら、神は後藤さんの家族を守ってくださるだろう、そう思いながらも、祈らずにはいられなかった。
後藤健二さんのために。残されたご家族のために。関係者の方々のために。後藤さんが紛争地帯で出会った人たちのために。苦しみの中にあるすべての人のために。そして、こんなことを言うと誤解されるかもしれないが、後藤さんらを死に追いやった人たちのために。無理解な人たちのために。祈らずにはいられなかった。
後藤健二さんは羊飼いについてゆく小羊のようにキリストに従う道を歩んだ。彼は、一粒の麦となって地に落ちた。願わくはこの一粒の麦が芽を出し、数多くの実を結びますように。平和の実を結びますように。
私は、両手で机を叩いて、声をあげて泣いた。
(伊藤一滴)
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