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人間と性

「ジネント山里記」を8年続けました。
自然の中で自然(じねん)と生きることを願い、山里の古民家に転居してからもう8年!
小学校入学前だった長男は中3になろうとしています。

「じねんと、じねんと」
そう自分に言い聞かせながら、いろいろやりました。
いろいろありました。
就農や自家の食料の自給向上など、理想に向かって動き出した面もありますが、理想がまだまだ遠い面もあります。

これまで、性をテーマに何か書いたことはありませんでした。でも、人生の最終地だの、人生の目的だのを言い出すと、人生の歩みの中の性についても避けて通れないように思うので、いま思っていることを少しだけ書いておきます。

実は、人間と性については、こうだという答えが出ません。正解がないと言ったほうがいいかもしれません。そもそもが矛盾なのです。

生物は、進化の過程で性別を得たことで多様化しました。性別がなかった時代の生物は、基本的には自分のコピーをつくって子孫を残すしかありませんでした。突然変異もあったでしょうが、基本は自分のコピーです。弱点も自分と同じです。環境が激変すれば、皆が死に絶えるおそれもありました。
性別を得たことで、子孫がばらけるようになりました。両性の遺伝により、多様な子孫を残すことが出来るようになったのです。
人間もこの延長線上にいます。

人間の性は、おそらく、太古の昔の、乳児死亡率がうんと高かった時代を受け継いでいるのでしょう。太古の時代は、それ相応の生殖がなければ種族が絶えるおそれがあったので、それ相応の能力や意欲が求められたのでしょう。
その後、時代は変わりました。現代の先進国においては、乳児死亡率は激減です。日本では5歳前に亡くなる子は100人に1人もいません。
ところが、人間の性は、たぶん、原始時代とあまり変わっていないのでしょう。
子孫を維持するのに必要な以上に性の能力と意欲を今も持ち続けているというのが、1つの矛盾です。
そしてまた、人間には人間の考えがあり文化があり、性は生殖以外の意味も持つようになりました。これも、時に人を悩ませるという現実があります。

結婚は文化によって様々な形態があり、例外もあるようですが、一般的には、そう遠くない過去の時代まで、人は身体的に成熟すればあまり間を置かずに結婚したようです。今は違います。身体的成熟から結婚までかなりの間があります。教育水準が高くなったことや産業の変化も関係しているのでしょう。世界のすべてではないにしても、先進国では男女共に高い教育を受けられるようになりました。高い教育は歓迎すべきことですが、一方で晩婚化が進み、第一子すら高齢出産となるなど問題も起きています。高齢出産で、出産そのもののリスクも高くなり、子どもがまだ小さいのに自分の体力の衰えを感じ、そういう状態で育児と親の介護の両方を抱え込む、といったことも起きています。若いうちに出産しておけば、妻の両親も夫の両親も元気で、育児にも協力してもらえたでしょうに。
若く活発な時期を独身で過ごし、衰えを感じ始める頃に結婚するというのは、とても不合理に思えます。
かといって、教育や就労を否定したり制限したりもできません。あっちを立てればこっちが立たない矛盾です。高度に発達した現代文明が抱えている矛盾です。

晩婚化・非婚化が人間の精神にどう影響するのか、いろいろ言う人もいますが、私にはよくわかりません。結婚した人にも生涯独身だった人にも非常に立派な人もいれば問題のある人もいるからです。
独身者には独身者の我慢や悩みがあり、既婚者には既婚者の我慢や悩みがあります。もちろん、いいこともいろいろありますが、すべてが思い通りにいく暮らしなんてありません。

そして、当然ですが性には男女差があります。身体的な差だけでなく、心にも(これは優劣ではないですし、絶対的なものでもありませんが)傾向として、男女の視点の違い、物事の捉え方や感じ方の違いがあるようです。こうした男女の差ゆえ、異性の気持ちに対する配慮不足でトラブルが生じることもあります。この違いは矛盾というわけではなく、もともとが違うものなのでしょう。
私は、両性の平等を信じる人間ですが、平等というのは同質ということではなくて、互いに違う者同士が対等な者として相手を尊重しあうことだと思っています。まあ、こんなことを言うと、お利口さんの模範解答みたいですが・・・。

私は20代の時、ある牧師さんにこう聞いてみたことがあります。
「先生、人間の性というのは罪なのでしょうか? 悪なのでしょうか?」と。
牧師は答えました。
「包丁を調理に使うか、強盗に使うか、みたいな話です。包丁を持っていること自体、罪でも悪でもありません。台所で使えば良い道具であり、強盗に使えば悪い道具になります。人間にとっての性とは、そういうものだと思います」
そのように広く言われているのか、それとも牧師さんがそう考えたのか、どちらだか知りませんが、これはなかなかの名回答だと今も思います。(その牧師さんは、他者に寛容な、リベラルな人でした。教条主義者やファンダメンタリストではありません。念のため。)
(伊藤一滴)

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