« 宗教の成立と一神教の限界(宗教私論) | メイン | 宗教多元主義 »

補足:ジョン・ヒック氏のことなど

前回、ジョン・ヒック氏の多元論について少々書きました。ヒック氏は仏教に改宗したと聞いていましたが、正式な手続きを経て仏教に入信したのかどうか確認が取れないので、「仏教的な見解を表明するようになりました」と書き改めました。(なお、ジョン・ヒック氏は今年亡くなられたそうです。)
ネット上の百科事典「ウィキペデア」で「ジョン・ヒック」を調べてみたら、かなりわかっておられる方がお書きになっているようで、実に的を得た記述でした。
ちょっと長くなりますが引用します。

「ジョン・ヒック」ウィキペデアより引用
引用開始
ジョン・ヒックはキリスト教徒の哲学者で、宗教多元論の主唱者として最もよく知られている。もともとは伝統的な福音主義者であったが、文化的・宗教的な多様性が現に存在しているという事実を、神の愛と一致させる問題を考えることを通じて、次第に多元論へと向かっていった。(略)
もし、キリスト教が伝統的に教えられてきたように、キリストへの信仰を唯一の救済の手段とするならば、そもそも福音や永遠の罰について何も聞いたことのない人々は神によって捨て去られ、永遠の破滅へと向かうことになる。(略)宗教的信仰とは、大部分において文化の産物であるように見える。世界の圧倒的多数の人々は、自分で自らの信仰を選んだとは言い難く、その多くは生まれた地域や時代、またその家族の信仰を受け継いでいる。そうした人々は、キリスト教の福音なるものを受け入れる素地を持たない。しかしながら、伝統的、福音主義的、排他主義的なキリスト教の信仰によれば、そうした人たちでさえ、罪のうちに死ぬことが確実なのであり、また、多くの(全てではない)キリスト教の教派の主張によれば、彼らは厳しく非難され、救いを受けることができないとされている。ヒックはこのことがキリスト教の神の愛についての教えと相容れないのではないかと考えた。ヒックの見解によれば、現に他の宗教が存在しているのだから、福音主義的なキリスト教の教えは不整合に陥っているのである。

ヒックはまた包括主義をも否定する。これは他宗教をキリスト教の亜種もしくは変形としてとらえるものであり、キリスト教優越主義というドグマを脱したものではないと主張する。

ヒックのこの問題に対する答えは、宗教的な真理というものを、文化および個々の人間に対して相対的なものとして見るというものである。彼はキリスト教の排他主義を間違ったものとして退ける。その一方で、他の様々な宗教を、それぞれがその文化や伝統などに基づいた形での、「真実在」への適切な応答だとみなすのである。これはキリスト教を含めた一神教に強いとされる『万民のための神』という思想に、多神教に強いとされる『神の多元性』という考え方を組み合わせたものともいえ、諸宗教の根幹精神における一致と現実の形態の多様性を共に承認し、共存の柱とするものである。
引用終了

福音主義の信仰に不整合などない、と言う人もいますが、素直に考えれば不整合のように思えます。

キリスト教の教えは愛の教えと言われているけれど、キリスト信者以外は全員地獄に落ちるみたいな考えが、果たして愛の教えなんだろうかという疑問が、子どもの頃からありました。ガンジーも宮沢賢治もキリスト教徒ではないから地獄に落ちるといった主張は、とても受け入れられませんでした。ある教会の牧師さんに聞いてみたこともありましたが、納得のいく答えは得られませんでした(今思えば、保守的な「福音派」の牧師だったのでしょう)。
10代の終わりから20代になって、内村鑑三、第二バチカン公会議の文書、カールー・ラーナー、晩年のカール・バルトの見解などに触れ、キリスト教の中には他者に寛容な考えもあることを知りました。
寛容性を突き詰めていくと、ジョン・ヒック氏のようになるのかも知れません。そして、それはもう「キリスト教ではない」と言われるのかも知れません。

それと、前回の補足ですが、新約聖書には「イエス・キリストの十字架の贖いによって救われる」とする見解と「神を信じる信仰によって救われる」とする見解と、両方出てきます。おそらく、別系統の伝承に由来する見解なのでしょう。キリスト教は唯一の救いを主張しながら、その唯一のはずの救いの論拠が2つあり、一見、相容れないようにも思えます。十字架の贖いで救われるなら神を信じる信仰の有無など関係ないはずだし、神を信じる信仰で救われるなら十字架の贖いは必要ないはずだ、といった見方も出てくるのです。その答えが難解な神学論になったり、人を煙にまくような話になったりするところも、キリスト教を説明する側の限界なのでしょう。
(伊藤一滴)

コメント

コメントを投稿

コメントは記事の投稿者が承認するまで表示されません。