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『愛しの座敷わらし』を読みながら田舎暮しを考える

今年も田植えをしました。
毎年、ほぼ同じような営みが繰り返されます。私は、それでいいと思います。
ひたすら、発展だの進歩だのを求め、絶え間なく変化し続ける世の中には、もう新鮮さも感じられず、疲れを感じるだけです。

萩原浩著『愛しの座敷わらし』[朝日文庫]を読んでます。
おもしろいです。
ネット上にもたくさんの書評が載っているので、解説めいたことはそちらに譲りますが、田舎暮しをしている人や、田舎暮しを目ざしている人にはお勧めの本です。
転勤(左遷)で、東京から東北らしき田舎に引越してきた家族が、古民家に暮し、座敷わらしに出会い、それぞれに抱えていた問題を乗り越えながら家族の絆を回復してゆく物語です。読んでおもしろいし、心に響いてくるものがあります。

私も、まさに東北の田舎に住み、一家で古民家暮らしをしていますが、この本には田舎の雰囲気、古民家の雰囲気がうまく描かれていまして、うなづきながら読みました。
私は、座敷わらしに会ったことがありませんが、座敷わらしでも出てきそうな雰囲気は、我が家にも近隣の家にもあります。まあ、萩原浩氏が描くような座敷わらしであれば、いてもいいかな、と思います。

田舎暮しに批判的な人もいます。農山村ブームの行き過ぎへのブレーキというか、批判的視点もある程度は必要でしょう。批判のすべてが的外れとも言えません。でも、批判的な人が書いた文章を読むと、どこか田舎を蔑み、田舎の人を見下しているような表現を感じることがあります。「私は高い教育を受けた人間だ、だから、何もわかっていない田舎の人たちに教えてあげないと・・・・」みたいな。
そのような思いが態度に表われ、もともと住んでいる人たちに嫌がられて、その結果、田舎暮しに批判的な意見を言うようになったのだろうかと思えることもあります。

都会の人が思っている以上に、田舎の人はものを知っています。
思考力や判断力は、都市の人が高くて田舎の人は低いなんてことはありません。
田舎では勉強できないから子どもの学力も低いのでしょうか? とんでもない。
秋田県の学力の高さをどう説明するのでしょう。
私の次男が通うふもとの小学校だって、全国統一テストで抜群の好成績でした。塾も何もないのにです。誰も塾通いなどしてません。田舎の人間は劣っていると考えている人たちは、どう説明するのでしょう。

山里に住む私にとって、近隣の人たちはみな先生です。農業のことや、山菜の食べ方、山で暮らす知恵、いろいろなことを教えていただいています。そうやって、私たち一家は、集落の一員として暮らしています。

結局のところ、田舎が楽園になるのも嫌な場所になるのも、相手とかかわってゆく自分の姿勢ではないのでしょうか。

同じものを見たり、同じことを体験したりしても、それをどう感じ、どう受け取るか、人によって違うというのはよくあることです。

たとえば、これもよく言われる例ですが、ビンに3分の1くらい飲み物が残っているのを見て、「もう、これだけしかない」と思うのも、「まだ、これだけある」と思うのも、それはその人の考えで、ビンの中の同じ量を見ているのです。

豊かな自然や、古い民家、近隣の人たちとのかかわりを、恵みと感じる人にとっては恵みでしょうし、そう思わない人にとっては、不便な場所、古くさい家、おせっかいな人たちとの煩わしい関係にしか見えないのかもしれません。

田舎を幻想のユートピアにしてしまうのもどうかと思いますが、実際以上に悪く考える必要もありません。

佐藤彰啓著『田舎暮らし虎の巻』[文化出版局]も良書だと思います。これには、経験ある著者の的を得た指摘の数々が載っていますから、田舎暮しの手引書としてお勧めです。

(伊藤一滴)

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