「方丈記」
きのう(2011年4月7日)、長男が中学校に入学しました。震災後の混乱の余波がまだ続いていて、たいしたお祝いもしてあげられません。
夜、11時35分ごろ、かなり大きな余震があり、目を覚ましました。揺れがおさまったら間もなく停電になり、今日の午前中まで停電でした。
停電のため朝ご飯を食べずに出勤・登校した人がかなりいたのではないかと思います。うちは、ガスコンロを使い、肉厚のなべでご飯を炊いて子どもたちを送り出しましたが・・・・。
「方丈記」に出てくる天変地異のような日々が続いています。
下に載せる文章は3月11日の東日本大震災の直前に書きました。載せようと思っていたら、震災が起きて停電になり、停電が回復してからも他に書きたいことがいろいろあってそのままになっていました。
今は、季節が少しずれていますがそのまま載せます。(伊藤一滴)
3月になったのに寒い日が続いています。まだ農作業もできないし、少し時間のとれるときにと思い、薪ストーブのそばで鴨長明の「方丈記」を読んでいました。
方丈記に示された無常観は、若い時から好きでした。
近年、各方面で世の中の行き詰まりを感じます。こういう時代こそ、方丈記が心に滲みます。
短い文章ですから、ゆっくりていねいに読んでも2時間もあれば読めます。
二十歳前後の自分を懐かしく思い出しながら読みました。
方丈記との出会いは高校生のときでした。初めの箇所が古文の教科書に載っていました。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし・・・・・」。
教科書には朝顔の露と花のたとえ話のところまで載っていました。
高校生だった私の古典読解力はたいしたことなく(今もそうですが)、古文が得意でもないのに、方丈記は魅力的でした。歯切れのよい文章でリズム感があり、内容にも説得力があって引き込まれました。
続きが読みたくなって買ったのが、川瀬一馬校注、現代語訳『方丈記』[講談社文庫、たぶん絶版]でした。現代語訳を読み、原文を読み、そうやって繰り返して最後まで読みました。
高校卒業後も、旺文社版や岩波版、講談社学術文庫版なども買って何度も読みました。
十代~二十代の私でも、浮世の富や宝の空しさを説く方丈記が心に滲みました。
1970~80年代、「頑張って勉強して勝ち抜かないといけない、いい学校に進み、いい所に就職すれば幸せになれるのだから」みたいな価値観が、私の両親も含めて、世間に蔓延していました。そうした風潮に対し、当時の私なりの反発もあったのかも知れません。
「この世の富や宝ばかり求めてどうするんだ、それで幸せになれるのか」と、私は冷めていました。言うと叱られるから、あまり言いませんでしたけれど。
(だいたい、「頑張って勉強して勝ち抜かないといけない云々」の価値観は、今考えても誤りです。それが幸福の保証にならないことなど、言うまでもなく明らかです。)
十代~二十代の当時は気づきませんでしたが、鴨長明が空しさを指摘する世の富や宝に、建築が含まれます。と言うより、「すみか」、すなわち住宅建築についての話がかなり大きなテーマになっています。
これは、ある建築の専門家が書いておられるのを読んで最近知りました。
なにしろ最初から、「人」と「すみか」のことを、消えたり現れたりする水の泡に例えています。そして、危険な都の中で身分の高い人も低い人も家の高さを競い合う空しさを語ります。災害で壊れた建築の話も出てきます。最後の方に、自分自身の「すみか」の変遷も出てきます。自分はかつて大きな家に住んでいたが、わずらいも多く、結局、方丈(10尺四方)の家で十分だ、という話になるのです。
現代の1尺は約303ミリなので、方丈はその10倍の約3メートル四方です。
江戸時代の1尺には微妙な地域差もあり、明治政府が統一しました。現代の大工さんも明治政府の1尺を使っています。
鴨長明が生きた時代の京都の1尺がどれくらいだったのか、私にはわかりませんが、江戸時代の1尺とほぼ同じであれば30センチ前後。そうであれば、やはり方丈は、約3メートル四方になります。
たった3メートル四方の家! これは究極の住宅です。
「わらびのほどろを敷きて」寝床にしている、という話が出てきます。「わらびのほどろ」というのは、わらびが伸びてほどけたものだそうです。わらびは腐りにくく、虫もつきにくい植物です。鴨長明は、わらびの防腐・防虫効果を知っていたのかもしれません。これも究極の寝床です。
私事になりますが、私は、山里の古民家に転居してちょうど6年になります。引越した当初、
「なぜ便利な街中から、不便な山間部に引越すの? 逆ならわかるけど」
と、ずいぶん言われました。
田舎暮らしは、今後予想される様々な危機に対応しやすいと思いますし、ふだんでも住みやすく、居心地がいいのです。でも6年前は、人に言ってもなかなか分かってもらえませんでした。
鴨長明は言っています。
「魚は水に飽かず。魚にあらざれば、その心を知らず」と。
私も同じ気持ちです。魚に対して「水の中の暮らしは不便だろうに、なぜ水に住むのか」と言ってみても、魚でなければその心はわからないのです。
まさに「住まずして、誰かさとらん」というものです。
今読んでも、方丈記は新鮮で魅力的です。
(伊藤)
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