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原発事故に思うこと

「たとえあす終末が来ようとも、きょう私はりんごの木を植える」

これはマルティン・ルターの言葉とされていますが、本当にルターがそう言ったのかどうか、確認は取れないそうです。
カトリック教会の強大な権力に異議を唱えたルターですから、異端者と見なされて殺されるかもしれない中で、本当にそう言ったのかもしれません。

明日は死ぬかもしれないが、今日はふだん通りの生活をする。あす終末が来ようとも、今日はふだんと同じようにりんごの木を植える作業をしよう。
実は、私も今、そんな気持ちです。

以前から、私は原子力発電に批判的でした。
原子力発電を行なえば、必ず放射性廃棄物が発生します。そして、この放射性廃棄物を無害化する方法が確立されていません。
原子力発電所は「トイレのないマンション」と言われました。「排泄物はバケツに入れてフタをして積んで置けば、いつか科学が進んで処分できるだろう」みたいな、問題を未来に先送りする、いずれは破綻に向かうと思われる発電法でした。

1960年代には、原子力発電などなくてもみんな暮らしていました。
それが、その後どんどん電化が進み、電気を使わなくて済むものまで電化され、電気の使用量が増大しました。特に近年、快適さだの便利さだのが強調され、オール電化住宅や電気自動車を推奨するキャンペーンが続けられてきました。

住宅や自動車の電化の推奨と原子力発電の推進は両輪のようです。
原子力発電は、その性質上、電気の需要が多い昼間に発電量を多くしたり需要の少ない深夜は抑えたりする微調整ができないのです。その結果、深夜の電力が余り、余った深夜電力を使うオール電化住宅や電気自動車が推奨されるようになったのです。

「原子力発電は二酸化炭素の排出が少ないクリーンなエネルギーである」とする主張は、人を錯覚させる主張です。
原子力発電の稼動の前後も重大な事故発生も考慮していません。何の問題もなく稼動している最中の二酸化炭素の排出だけ論じてもフェアではありません。

福島の原子力発電所の事故で、私が恐れていたことが本当に起きてしまいました。
各地の野菜だけでなく、23日には東京23区の水道水からも放射性物質が見つかり、1歳未満の子に水道水を与えないよう指示が出ました。
東京の水道水から検出されるくらいですから、いくら微量とはいえ、原発の放射能汚染はかなり広範囲に広がっているのでしょう。
制御が難しい巨大なエネルギーは、それに賛成している人だけでなく、批判している人まで巻き込んでしまいます。

これで日本は目を覚ますのでしょうか?
原子力発電を段階的に縮小し、将来的には廃止する方向に向かっていくのでしょうか?
それとも、事態がいったん収束すれば国も国民も今回の危機を忘れ、何だかんだと理屈をつけて、また「便利で快適な」生活に進んでゆくのでしょうか?

現代の産業文明社会は、もろく危険なバランスの上に保たれています。

「たとえあす終末が来ようとも、きょう私はりんごの木を植える」
私は今、そんな気持ちです。
(伊藤一滴)

コメント

 このたびのことで、生活の見直しを考える人は多いのではないでしょうか。
 原発の事故はある意味象徴的な問題提起となったと思います。オール電化にすることが、原発推進の片棒を担がされていることを意識していた人など、これまでほとんどいなかったと思います。
 熱源を分散することによるリスクヘッジの考え方が、結果的に、自然と共存しつつ人類が生き続けることにつながるのでしょう。折り合いをつける、というある意味中途半端で非効率な姿勢こそ、これから大切になってくるでしょうね。

震災や津波は天災、原発事故は人災で、どちらも大変な災害ですが、災害を教訓にして、現代の暮らしのあり方を見直すきっかけなればと思います。
北国の冬の暖房は重要課題ですが、他にいろいろな分野で、危険を分散することで危機を回避することが求められるのでしょう。私は、伝統的な農村の暮しに、種々のリスクヘッジを感じています。(どの家もある程度の食糧や乾物類を備蓄していたり、薪の蓄えがあったり、水源の確保があったり、ナタやノコギリがすぐ使えたり、その他いろいろ。)
効率とリスクヘッジは対極的に思えます。効率を追求すればリスクがあり、リスクを回避しようとすれば非効率になるようです。
どのあたりで折り合いをつけるか、ということになりますが、私も、効率の追求を優先するのではなく、隣人と共に自然との調和の中で生きていけたらいいと思います。
(伊藤一滴)

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