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所有の魔力

お金がなくて苦労した人の中には「お金があれば幸せになれる」と思う人がいる。
モノがなくて苦労した人の中には「モノがあれば幸せになれる」と思う人がいる。
土地がなくて苦労した人の中には「土地があれば幸せになれる」と思う人がいる。
古いものを使って我慢してきた人の中には「新しいものがあれば幸せになれる」と思う人がいる。
そんなところでしょうか。

実際のところ、所有と幸福は比例しません。
冷静に考えればわかりそうなものですが、冷静に考えられなくなるのが所有を求める魔力なのでしょう。
資本主義社会そのものが、とことん所有をあおる社会ですが、この魔力に取り憑かれ、いい結果になることは、まず、ないでしょう。
多くを所有するためには、自分にも、家族にも、犠牲や我慢が多いのです。
それに、いくら所有したって、人はいつか死にます。どんなに長生きしたって老いていくし、最後には死にます。死んだらあの世には持っていけません。

私は、山形県村山地方の山里の古民家に暮らしています。地方都市から転居して、今年で6年目になりました。私と妻と子ども3人の5人家族で、大自然の中、つつましく暮らしています。山里の古民家暮しは、不便と思わなければ不便はないし、不自由と思わなければ不自由もないです。むしろ、都市の束縛から解放され、のびのびした気持ちでいます。
本当にタヌキやキツネが出るし、夜になるとフクロウが鳴いています。夜は真っ暗で、自宅の駐車場まで行くのも怖いみたいな感じです。ただし、戦後1件も犯罪はないそうで、たまにクマが出るくらいです。集落には、うちを含めて10数戸の家があります。

「もっといい家もある」と言う人もいますが、「いい家」が、かつての富農・豪商の家だったりします。
召使いや女中が何人もいて維持されていた家に、現代の普通の家族が暮らしたらどうなるか。維持するだけでも大変でしょう。
普通の家族が、家に使用人など置かずに、小規模の農業をやるくらいの、身の丈に合った家がちょうどいいです。

私たちが住んでいる家は1933年(昭和8年)築。当時の地主の分家の家でしたが、分家ですから、使用人などおらず、まずまずの暮らしをしていた自作農だったようです。古い家ですが造りはしっかりしていて、私たちが住むのにぴったりです。土地込みで、新築住宅を建てる4分の1以下の値段で購入しました。
家の機能を維持するため、ある程度自分で補修しましたが、お金をかけた民家再生はしておらず、オリジナルの状態に近いので通気性のいい家です(夏はいいのですが、冬はちょっと・・・・)。コンクリートの基礎はなく、玉石の上に土台が載っています。奥の座敷は暗く、階段は急勾配。トイレは汲み取り式。と、まあ、かつての民家そのものです。でも、私たちにはこれが「いい家」で、最新の住宅設備や豪邸は望んでいません。ほどほどがいいです。

所有と幸福は比例しないし、新しさと幸福も比例しません。
数字で表されるものと幸福とが比例しないのと似ています。
(伊藤)

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