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「生きづらい時代を生き抜く 働く喜び 技持つ体で」

作家の塩野米松氏が書かれた「生きづらい時代を生き抜く 働く喜び 技持つ体で」という新聞記事を引用します。(出典は2009年10月15日に山形県内で配布された朝日新聞です。都市部では前日の夕刊などに掲載された可能性もあります。他の地域での掲載日は確認しておりません。)

(引用開始)
「生きづらい時代を生き抜く 働く喜び 技持つ体で」塩野米松
 多くの人が今の社会は生きづらいという。
 長いこと農林業者や職人、漁業者達に会って話を聞いてきた。明治生まれも大正生まれも昭和の方もいた。その方々も、自分たちは生きやすく、楽しい人生を送ってきたとは言わなかった。
 私が会った多くの方々は徒弟制度のなかで技を身につけ生き方を学んできた人達だった。
(中略)
 教える親方や先輩達は「見て学べ」と言うだけだった。
(中略)
 時間のかかる辛い修業であった。しかし、習得することは仕事を手に入れることであり、家族を養い、自分が生きていく術であった。
 やがて一人前になり、腕を上げれば、効率は上がり、利益も出るようになるが、目指す到達点が遠いことに気づく。だから日々努力を惜しまなかった。努力だけが自分を補ってくれる手段だからだ。努力は辛いものだったが、喜びも伴っていた。積み重ねれば明日があり、報われることもあった。
しかし時代は変わった。時間のかかる訓練を避け、効率の向上を目指した。効率こそが価格競争に勝てる最高の武器だと考えたからだ。
(中略)
 世の仕組みも、人々の考えも努力や修業、技を持つ体を不要のものとしたのだ。技はデータとして機械に組み込まれ、人間に付属するものではなくなってしまった。修業は人を磨き、生き方を支えるものであったが、それがなくなった。
 今、人は働かされていると感じている。そこでは隠された能力が引き出されることがない。見つけ出す過程がなくなったからだ。報いは金銭であり、喜びが薄っぺらなものになってしまった。働くことの意味が変わったのだ。
 働くことと生きることは人生の裏と表であった。生きづらい世の中と思う人が多いのは、働くことに喜びが伴わなくなったからではないか。私の会ってきた人々は自分の仕事を語るとき、苦しかったとは言いながら、表情に生気があり、誇りがにじんでいた。
 社会が変わっても人は生きていかなければならない。働かなければならない。機械を捨てろというのではない。効率も必要だ。しかし、新しい時代の中で働く意味と喜びを見つけなければ、生きづらさが増すばかりだ。
 働くことの喜びをどうやって復活させるのか。お手本はほんのこの間までの日本にある。
(以下略 引用終了)

上に引用した塩野米松氏の指摘は、その通りだと思います。
でも、今、どこに「新しい時代の中で働く意味と喜び」があるのでしょう。
「お手本はほんのこの間までの日本にある」といっても、そのやり方では食べていけなくなってしまったから多くの人が離れていったのです。修行がつらいから離れたのではないのです。塩野氏自身がおっしゃるとおり「世の仕組みも、人々の考えも努力や修業、技を持つ体を不要のものとした」のです。
農林水産業や手工業から離れた人たちや、そうした仕事あこがれながらも生活のために勤め人となった人たちは、産業文明社会の中で、日々、さらなる効率化や利益を要求され、上記引用のとおり、生きづらい状況です。
まさに、「技はデータとして機械に組み込まれ、人間に付属するものではなくなってしまった」のです。時間をかけて、努力して、技術を身につけても、産業文明社会の技術はすぐに古びていき、努力に見合う報いがありません。今や、人間は電子制御の下僕です。
人のために作られたはずの電子機器が人をコントロールし、人の仕事も奪い、まるで社会の主人は人間ではなくて、電子制御機器のようです。
(仕事ではない趣味の世界までそう。趣味のドライブは電子制御のオートマ車。趣味の写真撮影はデジタルカメラ。運転にクラッチワークもいらない、撮影に焦点を合わせる技術もいらない。技はデータとして機械に組み込まれ、企業が設定したとおりに使うだけ。)
いつの時代でも、その時代のひどさ、大変さがあったのかもしれませんが、現代の生きづらさは深刻です。

必要な仕事、人の役に立つ仕事をして、喜ばれる。
仕事をする人が、仕事の全体像をきちんと把握している。使う道具も把握している。
それで収入が得られる。生活していける。
しかも自然環境や社会に害を与えない。
そんな仕事ができたら最高です。

何の意味があるのかわからない仕事。
全体像が見えない仕事。
その仕事にかかわる規準や法令があまりにも膨大・煩雑で、仕事をする人自身、規準や法令を把握しきれないような仕事。しかも、しょっちゅう改正。
道具も電子制御で、使う人も道具の仕組みがよくわからない。道具を作った企業が指定したとおりに使い方を覚えて使うだけ、しかも、どんどんモデルチェンジ。
人間が消耗品にされるような過酷な仕事。非人間的なことを要求される仕事。
仕事をすればするほど、その仕事が自然や人を蝕んでゆく仕事。
報いは金銭だけ。お客も自分も喜びを感じない仕事。
今、そんな仕事が増えてきました。

それでも仕事にありつけるだけまだマシで、そもそも仕事に就くことさえ出来ない人も増えています。
産業文明発展の末、機械も社会も複雑になり過ぎて、人間がはじき出され、あたりまえに人間らしく生きることさえ大変になってきました。

塩野米松氏の指摘はもっともですが、「ほんのこの間までの日本」をお手本にして「働くことの喜び」を復活させるのは、お金を得て生活していくという点からも容易ではないでしょう。
私も、それを知りながら、自分自身、その容易ではない道に向かって進んでいるのですけれど。(伊藤)

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