自分で稲刈り
10月4日(日)、秋晴れの空の下、稲刈りをしました。
バインダーと呼ばれる稲刈り機を使いました。
バインダーというと書類を綴じる事務用品を連想するのですが、農業でいう「バインダー」は、稲束を結束する機能がついた稲刈り機のことです。
Kさんという知り合いの農機具屋に中古品を探してもらい、整備費込みで4万円で買いました。30年くらい前のものですが、最大でも30回くらいしか稲刈りに使っていないわけで、状態はいいです。乾田で使うものなので、田植え機などと違って水浸しになることもなく、あまり劣化もしないようです。
さて、なにしろ生まれて初めて使うバインダー(稲刈り機)。ちょっと不安もありましたが、練習するわけにもいかないし、いきなり田んぼでぶっつけ本番です。
地主の真壁(まかべ)さん、農機具屋のKさん、それと隣町にすむ私の父(75歳)にはあらかじめ稲刈りの日を伝えていたのですが、頼んだわけでもないのに3人とも朝から田んぼに来てくれました。
3人が見守る中、バインダーのエンジンを始動し、田んぼに入りました。真壁さんも農機具屋のKさんも来てるし、もし何かトラブルがあってもなんとかなるだろうと思って始めました。
ダダダダ、ダダー、と、機関銃でも撃つみたいにバインダーが動きます。大きなバリカンみたいなのが動いてどんどん稲を刈り、しかもその稲を束にして、ヒモで縛ってポンと出してくれます。
考えてみればすごい機械ですよ。あとから稲束をよく見たら、片蝶結びになってました。刈るだけなら何となくわかりますが、刈るのと同時に、手ごろな束にして、縛って、片蝶結びに結んで、ヒモを切って稲束を出すんです。それらを瞬時に繰り返すのです。
日本の機械の技術力は、完成度が高いなあ、と思いました。
でも、こんなすごい機械も、今となっては旧式です。今は、刈ると同時に脱穀するコンバインが主流です。それだと、天日干しはできません。機械で人工乾燥です。産業技術が進み過ぎました。なんか、味などおかまいなしに、機械化、省力化が進んだ感じです。
途中で休憩を入れました。
真壁さんが言いました。
「伊藤さん、天日干しが一番いいんだ。うまいんだ。炊いたときのご飯の香りが全然違う。新米ができたら、いっぺん羽釜で炊いてみるといい。最高だよ」
そう言いながら、稲杭に稲束をかけるやり方を教えてくれました。
機械の入れない田んぼの隅は、昔ながらのノコギリ鎌で、手で刈りました。稲束の結び方も真壁さんに教えてもらいました。コツは、結ぶワラ(またはヒモ)を親指の爪で押し込まないことだそうです。
「若い衆は、たいてい親指を傷めるんだ」と、真壁さんは言います。やってみると、ちょうど親指の爪でワラを押し込みたくなりますが、それがダメなんだそうです。
私が参考にしている横田不二子氏の『週末の手植え稲つくり』[農文協]は、私が知る限り最高の稲作入門書ですが、それにさえ、親指で押し込んでいるように見える絵がありました。親指の爪を使うのは禁物で、最悪の場合、爪を剥ぐこともあるそうです(稲作農家の常識なのでしょうが、私が目にした本や資料では未見でしたので、念のため書いておきます)。
田んぼはよく乾かしたつもりでしたが、それでも一部水はけが悪い箇所があり、泥でバインダーの車輪がカラ回りし、動けなくなってしまいました。農機具屋のKさんに助けてもらったのはそのときだけです。押したり引いたりしてもらって脱出しました。機械自体のトラブルは一度もありませんでした。
さて、干す作業は、刈る以上に時間がかかりました。洗濯もそうですが、機械にやってもらっても、干すのは手作業です。
真壁さんの家から運搬車(キャタピラーがついていて、ガソリンエンジンで動く台車)を借りてきて、刈った稲の束を集めて行きました。
Kさんと真壁さんは順調なのを見届けて帰り、妻が手伝いに来て、私と妻と父の3人で稲束を運搬車に積んで、稲杭まで運びました。
あるわ、あるわ。
去年、コンバインで脱穀した生のモミだけで1トン以上ありました。ワラを取り除いて1トン以上あったわけで、今年はワラにモミがついたままの稲束の状態で運ぶので、全部で何トンあるんだか。父は夕方まで手伝ってくれて帰り、妻も晩御飯の支度で帰り、あとは私1人でやりました。
月が出てきまして、ちょうど十六夜。満月に近い月で、田んぼから見る月って、美しいですね。
でも、見とれてる場合じゃなくて、あるわ、あるわ、稲束があるわ。
刈ったらその日のうちに干さないと湿って乾きにくくなるとのことで、ひたすら干すのですが、だんだん暗くなって手元が見えにくくなり、運搬車のエンジンを回すのは危険なので、あとは手で集めて干しました。
さいわい、月の明かり。
月光農業。ナイター農業。
そのうち目も慣れてきて、月の明かりで干しました。
そういえば、夜にいろいろやったなあ。建築の勉強も夜学だったし、東京の設計事務所にいた頃は、夜遅くまで延々と仕事をして終電に走ったり、朝まで事務所にいたこともあったし。
1990年代、まだバブルの残照が鮮やかな東京にいて、僕も若かったし、頑張ればきっとよくなるって思っていたけど、あれから建築業界は悪くなる一方だったなあ。
でも、おかげで僕も目を覚まし、山里に引越して来る決心もついたんだから、僕にとっても家族にとっても新生活のきっかけになったんだけどね。
「経済の成長」だの「産業の発展」だの「内需の拡大」だのって、政治家や経済学者たちはいつまで言ってるんだろう。そんなの、無限に続くはずがないのに。
政治家や学者になるほどのいい頭で何で気づかないんだ。いや、気づいてるのに知らんぷりしてんのかな。認めるのが怖いのかな。限界を認めたら、自分が今までしてきたことが否定されかねないし、今後を語れなくなってしまうから、逃げてるのかな。
それにしても、まさか、こんな山ん中で稲作をする日がくるなんて、思わなかったよ。
まさか、ね。
人生って、わかんないなあ。
ああ、きれいな月だ。東京で暮らしていた頃は、月を眺める余裕なんてなかったなあ。
と、まあ、いろいろ思いながら、稲を干しました。
ずいぶん夜遅くまで稲を干したような気がしましたが、終わったのは、午後7時でした。夏ならまだ明るくて、田畑にいる時間です。
真壁さんの家に寄ってお礼を言い、それから月の光に照らされた山里の道を歩いて家に帰りました。
去年は真壁さんのコンバインで刈ってもらったので、自分で稲を刈ったり干したりするのは始めての経験でした。だのに、なんだか、昔からこんなことをしてきたような気がするのです。
それくらい稲作は自然な感じで、自分にしっくりとくるのです。
やはり私も米の民の一人。農作業が好きです。(伊藤)
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