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自公政権の終焉に思う

8月30日に投票が行なわれた衆議院選挙は、予想されたとおり民主党の圧勝となりました。
民主党に票を投じた人の中には、「民主党がいいわけではないが、とにかく自公政権をやめさせたい」とか「これまで自民党(または公明党)を支持してきたが、今回はお灸をすえてやりたい」といった人がかなりいたのではないかと思います。

自公政権の終焉(しゅうえん)は、麻生政権に対する審判というより、小泉純一郎氏らのいわゆる構造改革路線に対する審判でした。

郵政民営化選挙で自民党が大勝したのは、国民の支持があったからだ、国民が自民党を選んだのだ、という声もありましたが、それは、「国民を錯覚させる手法」に近い手を使って支持を集めたからでした。

「聖域なき構造改革」をキャッチコピーにして「郵政民営化」を唱えれば、聞く人は、「聖域」には公務員に関するものが多く含まれると思うでしょう。バブル崩壊後、民間人はこんなに大変な思いをしているのに、公務員だけ厚遇されるのはおかしい、小泉さんは公務員という聖域に斬り込んでくれるんだ、と思ったことでしょう。手始めは郵政、それから公務員制度全体を見直して無駄を切り、官僚の天下り問題も解決してくれる、と。
ところが公務員「改革」の実際は、マイナス面のほうが大きいと思われる郵政民営化だけで、霞ヶ関の権益や地方公務員の諸問題などには何ら手をつけることなく終わりました。

「聖域なき構造改革」の「聖域」には、医療や福祉、セーフティーネットに関わるもの、それを失えば国民の生活、生命が脅かされるようなものまで含まれていました。
小泉改革は、国民に誤解させておいて、切ってはいけないものを切り捨てたのでした。

これを「飛んでいる飛行機のエンジンを切って捨てたようなものだ」と言った人がいましたが、的を得たたとえだと思います。エンジンを捨てたことで一時的には軽くなり、浮力が増して浮き上がり、「改革の成果だ、景気回復だ」というわけです。
実際は、潤っていたのはごく一部の人だけで、全体に格差が広がり、貧困層が広がっていました。構造改革路線の果てにあるのは我が国の墜落です。失業も貧困化も「自己責任」ではもう誤魔化せません。

「聖域なき構造改革」という言葉を勝手に誤解した国民が悪い、と言われそうですが、自公政権は、国民に誤解が広がっていることを知りながら誤解を解こうとしませんでした。誤解の力で支持を集めて衆院の多数派となり、その後は数の力に驕り、聞く耳を持たずに走ってきた、とも言えます。
そんな手は、二度と通用しません。今回の選挙結果は、当然の結果です。

民主党政権になってどうなるのか。何がどう変わるのか。誰かを守れば他の誰かの負担が増えます。それで全体的にはよくなるのか、悪くなるのか。今のところ、予想できません。
言えるのは、これまでの自公政権のやり方に対する不満がつのりにつのり、国民は選挙の投票で、構造改革路線に審判を下したということ、自公政権を断罪したということです。(伊藤)

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