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小泉構造改革の果てに

せっかくのクリスマスイブにこんな話もなんですが、日々、資本主義が劣化し、崩れていくような状況ですから、今日は「小泉構造改革」の結果について思うことを書きます。

少数意見としては、小泉構造改革と格差社会の到来を単純に結びつけるべきではない、とする説もありますが、識者の多数意見は、この両者が合目的的であることを認めています。

小泉・竹中両氏が、構造改革が格差社会を招き、国民が分断され、ある人々が著しく貧窮化することを予見できずに改革を断行したとすれば、長期的な展望に欠けていたと言えるし、格差が拡大すると知りながらあえてやったとすれば、はなはだ冷酷な政策であったと言えます。

規制緩和、民営化、大企業優先、不良債権処理優先、株式投資の推奨などを進めれば、その結果がどうなるのかは、海外の例からも明らかでした。予見できたとおりのバクチ社会、格差社会が到来し、国民は分断されました。「リストラ」の名の下に大量の人員整理と新規雇用の削減などが行なわれ、一時的には大企業を中心に景気が回復したかのように見えましたが、それも崩れてきました。
小泉構造改革の功罪の「功」の部分は一時的な景気のカンフル剤に過ぎず、結果として、深刻な「罪」の数々が目につきます。

小泉氏は、努力する人もしない人もいるから格差は当然であるかのように言っていました。しかし現実は、その人の能力や努力とはあまり関係なく、チャンスそのものが非常に不平等になったのです。
そもそも、生まれる場所も、家も選べません。生まれた年が数年違っただけでロストジェネレーションになってしまった人など、本人の能力や努力とは何の関係もありません。高校や大学を卒業後に進学して数年間学んでいるうちにもう就職先がなかったという人もいます。かつての同級生はほとんど就職し、向学心があってさらに勉強を続けた「努力する人」の方がはじき出された例です。

構造改革を進める中で、激烈な椅子取りゲームが始まりました。例えば、就職先の椅子が20席あるとして、20番目に座った人と21番目で座れなかった人と、その能力に大差があるとは思えませんが、僅差で違う身分にされ、収入や福利厚生で大差がつく、そんな時代になりました。学歴や資格も含めて能力的に僅差なら収入や待遇も僅差という世の中ではないのです。これでは、他者を思いやる心のゆとりどころではありません。

かつての日本では、大多数は中流のような感じでしたが、今や上流と下流に二分され、中流が減りました。わずかの差でいったん下流になったら最後、もうはい上がれないような日本です。若者は冒険しません。海外で学んだり、アルバイトをしながら国家試験を目ざしたりしているうちに転落するかもしれません。もし失敗したら、もう二度とはい上がれないかもしれません。冒険も、モラトリアムな期間を過ごすことも、若者の特権だったはずなのに、できなくなりました。失敗したらはい上がれないかもしれないので、大志をいだくこともできません。
それは、たとえて言えば、腐り始めた床板の上を歩くようなものです。どこが腐っているのか、歩く本人にはわかりません。みんな慎重に歩きますが、腐った所を踏んだら最後、床下に転落してしまい、はい上がるシステムがありません。いったん転落した人間は、もう人間でないかのような扱いです。だからみんな、安全な最短距離を行こうとして、冒険しません。

今は、「すべり台社会」とか「階段のない社会」とか言われます。いったん下に滑ったら止まらないすべり台です。一段一段を堅実に上っていく階段も見当たりません。どこかにエスカレーターがあって、運のいい人はすーと上がっていきます。コネやツテのない人は暗闇の中を手探りしてエスカレーターを探すのですが、なかなか見つからず、そのうち腐った床板を踏み抜き、その下はどこまでも落ちてゆくすべり台かもしれません。

1960年代の社会福祉学の教科書を見ると、一番ケ瀬康子などが、本人の側に落ち度がないのに貧困化する例を挙げて貧困問題を論じています。その後、経済成長が続き、多くの人は貧困問題に無関心になり、語られることが少なかったのですが、今また、かつて一番ケ瀬らが論じたとおり、本人の側に落ち度がないのに貧困化する状況が多数見られます。これを本人の努力不足だとか、自己責任にすり替えてはいけません。

私自身、かつて、大学で社会福祉を学びました。ですから、はっきり言えますが、日本の社会保障制度には、健康で働いている人が貧困化する場合があるという前提もありません。そもそも前提がないので、救済するシステムがありません。機能しているかどうかはともかく、障碍のある人や病気の人、働く意欲があるのに失業している人への保障制度は一応あります。でも、「健康で働いている人」を救う制度はないのです。
どんなに働いても収入は生活保護水準以下というワーキングプア層が、現実に存在します。大企業優先の果てに、最近は小さな事業所の専門的な知識や技能がある人の中にも、ワーキングプアになったり、それに近くなったりする人が出てきています。だのに、健康で働いている人が貧困化するという前提がないので、社会保障制度に救済のシステムがありません。
形としては存在する既存の保障制度も、機能不全になってきました。生活保護を断られる人が続出する状況など、社会保障制度が機能不全に陥っている何よりの証拠です。
「自民党をぶっ壊す」と言った小泉氏は、相手を思いやる日本社会の美風も、法的な保障制度も、専門的な能力のある人が報われる世の中も、みなぶっ壊してくれました。

努力すればよくなるという希望があれば、努力もできるでしょう。しかし、今の日本には、努力すればよくなるという希望がほとんど見当たりません。ものごとが自分の努力で決まるのではなく、生まれた家や生まれた年で決まったり、親のコネやツテで決まったり、たまたま偶然決まったりして、そんなバクチのような中にいて、いったい何に希望を持って努力しろというのでしょう。
下流に転落した人の中には、希望を失い、自信を失い、結婚や恋愛をあきらめたり、精神を病んだりする人もいます。「勝ち組」も、収入はあっても時間がなく、いつも追われ、家族とゆっくり過ごすこともできないまま、子どもの教育やセキュリティーに多額のお金を使っている人もいます。はたして、子どもが健全に育つのでしょうか。また、「勝ち組」には、身辺や未来の不安にいつも怯えてびくびくしている人もいます。
小泉構造改革の結果、いったい誰が幸せになったのでしょう。

私たちは一家は山里に暮らし、田畑から作物を得ています。たとえ国が滅びる日が来ても、自給食料は確保するつもりで、だんだん「農」を広げています。自然に恵まれた中での農作業は、毎日がアウトドアみたいで、それはそれで楽しいし、たいしてお金はなくとも希望はあります。
わが家には「農」という希望がありますが、希望がない、というのはつらいことです。近所の70代半ばのおじいさんが言っていました。
「今の時代は、終戦直後よりひどいかもしれないね。あの頃は、物も食料もなかったけど、戦争が終わってこれからよくなるという希望があった。今の派遣社員の若者など、どこに希望があるんだろうね。物は豊富、食料は豊富、それで将来の希望がないっていうのは本当に気の毒だ」
義務教育を終えてからずっと農業をしてきた山里の高齢者が、今は終戦直後よりひどいかもしれないと言うのです。地方の、ふつうの高齢者の口からそんな言葉が出るのです。
それでも、小泉氏、竹中氏、およびその支持者は、「小泉構造改革は正しかった」とおっしゃるのでしょうか。(伊藤)

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