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いいものをつくるために

大企業や老舗の業者や有資格者の不祥事が続くと、管理を強化することで品質を確保しようとする動きになるのですが、私は、そういう発想は、そもそも誤りだと思っています。

管理の強化で品質を向上させようとしても、むしろ偽装や手抜きなどの不正を巧妙化させるだけではないかと思うのです。
大臣認定品の認定書を提出させるやり方も、そもそも認定を得るための試験の段階で偽装があったりするのですから、お話になりません。

ヨーロッパには古い教会建築が残っているし、日本にも見事な神社仏閣の数々がありますが、そうした優れた建築を建てた人たちは「管理の強化」でいいものを建てたのでしょうか?
否です。煩雑で膨大な書類の提出や厳しい工程管理でいいものを建てたのではありません。
いいものを造った原動力の一つは信仰だと思います。本気で神や仏を信仰していたから、不正などできなかったのでしょう。さらに、その建物を使う人たちへの思いや、自分の職人としての誇りもあったのでしょう。そもそも、偽装や手抜きとは無縁の世界でした。

伊勢神宮の近くで参拝者たちに大福餅を売る業者に、参拝に来てくれた人たちへの敬意や伊勢神宮の神様への信仰心があったら、不正なことをしたでしょうか?
利潤追求が第一になると、人への敬意も神への信仰心も吹き飛んでしまうようです。相手のことを思ったり、感謝したりするより、産業としての効率化・合理化の方が大事になっていくのです。
産業社会の企業活動にとって、利潤追求こそが神です。そのために、人間らしく生きることを犠牲にしても効率化・合理化が要求されます。企業の論理が最優先で、人に対する敬意や神仏に対する素朴な信仰など、どこかに吹き飛ぶのです。
今後、食品会社に対し、法律による表示義務の強化や保健所などによる管理の強化がなされたとして、それで品質が向上するのでしょうか。
偽装や手抜きなどの不正が巧妙化するだけの可能性もあります。

どの分野の事業あれ、管理が強化されれば、そもそも不正とは無縁だった少人数の小さな事業所まで、雑務がうんと増えて事業に悪影響が出るおそれもあります。不正などしたことのなかった事業所が、「不正防止のための管理」が強化されたせいで手間が増え、やむを得ず品質を低下させたりしたら完全に本末転倒です。

外から人を管理して、いいものをつくらせようという発想が、そもそも間違いなのです。
つくる側が、内なる心から動かなければ、いいものはできないと私は思います。

ほんの数十年前まで、地域のことは地域の業者が中心にやっていました。
大工さん、左官屋さん、建具屋さんなど、地域の人たちから信頼されていたし、いい仕事をしてくれました。下駄屋さんもあったし、豆腐屋さん、味噌屋さん、団子屋さんもありました。自家製のものを売っていました。地域の人たちと顔の見える関係でした。お客さんは顔見知りの人で、地域の人の信頼を失うようなことは出来ないし、自分たちも家業に誇りがあったろうと思います。
それが今では、日常の細かなことまで、企業が供給する物品やサービスに支配される時代になりました。なかなか、お互いの顔が見えません。全国どこに行っても金太郎飴のような、マニュアル通りの対応があるだけです。しかも、自分が企業の論理に支配されていることに気づいていない人も多いです。

管理を強化することで品質を確保しようとするのも企業の論理の一つでしょうし、官公庁までそうした企業的発想の影響を受けているようですが、こうした発想それ自体、根本から人間性に反しています。
産業文明もそれを支える資本主義社会も、実は、根本から人間性に反しているのかも知れません。

余談ですが、6月20日の建築基準法の「改正」で、設計者に対する管理がうんと強化されるようになりました。これも発想が根本から間違っていますから、この「改正」で建築が悪くなることはあっても良くなることはまずないでしょう。(伊藤)

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