ひめゆり部隊の遺品
私が高校生のとき、映画「ひめゆりの塔」のリメイク版(1982年版)が封切られ、同時期に山形市内で沖縄戦の遺品展も開かれました。私は列車で山形市まで出かけ、映画と遺品展の両方を見てきました。
ひめゆり部隊というのは、看護要員として沖縄戦に従軍した地元の女学生の学徒隊で、総員240名。みな10代の生徒たちでした。激戦下の沖縄で、しかも敵の捕虜になるより死を選べという当時の教育のもと、多くの死傷者を出しました。私の手元の資料には136名戦没とあります。
映画のほうは作品として構成されたものですが、遺品は実物で、さまざまな遺品の展示の中に、ひめゆり部隊の生徒のノートがありました。
そのノートは、「自決」用の劇薬のビンや他の遺品と共にガラスケースの中にあり、表紙だけ見えました。表紙には、いかにも10代の女の子が好きそうな、かわいらしい絵がかいてありました。
ノートの前で、私の足が止まりました。特別な人たちではなく、普通の人たちが戦争に巻き込まれ、死にました。こういうかわいいノートを使っていた普通の女の子も、従軍し、死にました。
私は動けなくなり、ノートの前に立ちすくみました。私は高校生。16~17歳で亡くなった女生徒たちと同じくらいの年でした。
その後、第二次大戦やベトナム戦争のかなり残酷な写真や絵を目にすることもありました。しかし、あのかわいらしいノートの記憶は、残酷な写真や絵に劣らず、私の心に焼き付いて離れません。(伊藤)
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