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カメラが輝いていた頃を思いながら

カメラの話の続きです。
次男の卒園・入学もひかえているので、写真をとってあげようと思い、カメラの手入れを始めました。
やっと少し、カメラの手入れも出来るようになってきました。

ひとときもじっとしていない幼い男の子が2人いて何をやりだすかわからない状況で赤ちゃんが生まれ、てんやわんやの状態が続き、じっくり写真を撮ろうと思う余裕もなく、どうしても撮ってあげたい赤ちゃんの姿やお兄ちゃんの運動会などは、万一壊されても被害金額の少ない「写ルンです」などを使っていました。好きだった一眼レフは、乾燥剤と共に密閉容器の中で眠りについていたのですが、このたびやっと復活です。

ようやくカメラを取り出す気になったのは、お兄ちゃんたちも成長がみられ、パパのカメラを勝手にいじったりお菓子のクリームやポテトチップスの油のついた手でレンズを触ったりしなくなってきたのと、赤ちゃんが女の子であまり無茶をしないので、これなら写真が撮れそうだという気になったからです。

ここ数年、育児や引越しや片付けに追われているうちに、世の中は変わりました。
引越しのときに失くしてしまったオリンパスのボディーキャップを買おうと思ったら「生産終了で入荷できません」という返事。露出計のボタン電池も生産終了でしたが、カメラのキタムラがアダプターを調べて取り寄せてくれたのでなんとか使えるようになりました。カメラメーカーはことごとくデジタルカメラのメーカーになったり、カメラ事業から撤退したりで、過去を切り捨てました。
街に出たついでに本屋に寄り、カメラ雑誌のコーナーをのぞいてみたら、書棚いっぱいことごとくデジタルカメラの雑誌ばかりで、フィルムを使うカメラを専門に扱った雑誌はわずか数点。数点でも専門の雑誌が出ているというのは、熱心なフィルム愛好者がいるという証しでしょうが、これは今のカメラをめぐる状況そのものでしょう。

カメラに限りませんが、熱心な愛好者は愛用の品を長く使うので、メーカーにとっては利益にならない存在です。長期の耐久性に優れる製品をつくるほど、長く愛用され、もうからないというのがこの世の中の矛盾です。メーカーにしてみれば、新製品に飛びついて、やがて飽きて、また次の新製品に飛びついてくれるユーザーの方が利益になるんです。あとは高価な消耗品を必要とする製品を購入し、消耗品を買い続けてくれるユーザーです。
それはわかりますが、だからといって過去を切り捨て、古くからのユーザーもバッサリ切り捨てていいのでしょうか。

道具を使う人間の側に決定権があったのは過去の話になってきました。
カメラでいえば、製品を選ぶことから始まり、絞りもシャッター速度も焦点も、人が手動で決めていました。すべての決定権が人間の側にありました。失敗も含めて、撮影のすべては撮影者の自己責任でした。それが今では人間に残された自由は構図を決めることだけ。それ以外で人間は、電子機器に仕える下僕みたいになりました。しかも何年かすると買い替えです。数年後には記憶媒体や周辺機器が旧式になって、いやでも買い替えを迫られるのは目に見えています。パソコンと同じです。ユーザーはお金を出し続けてくれるいいカモです。

フィルムを使う機械式カメラの時代が輝いて見えます。
そういう時代に、電池なしで使えるカメラで、小型、軽量、高性能、長期の耐久性に優れる、扱いやすい、シャッター音が静か、廉価といった条件を満たすものもあったのです。それが今、新製品のラインナップではもう皆無に近いです。
(「長期の耐久性」を別にすれば、かつて使い捨てと非難された「写ルンです」が高性能になりこれらの条件をほぼ満たしているのが何とも皮肉です。フィルムの詰め替えが可能で金属ボディーの「写ルンです特別仕様」でも出してくれませんか。富士フイルムさん。)

嘆いていてもしかたがないから、フィルムの販売が続き、現像所が存在し続ける限り、私は撮りますよ。
この山里の風景、古民家のある風景、最上川の見える風景、畑の風景、野生の生き物。子どもたちの成長。
感動を与える写真や、記録になる写真を撮りたいです。
旧式のジープに旧式のカメラを積んで、春の野山に出かけるのを楽しみにしています。私は時代遅れの古くさい人間です。
私には、古くさい生き方のほうが、居心地がいいんです。(伊藤)

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