梅原猛さんへの若干の反論
以前、朝日新聞に連載されていた梅原猛さんの「反時代的密語」が本になったので、ひととおり読みました(梅原猛『神殺しの日本』朝日新聞社刊2006、所収)。
こうしてネット上に文章を書いている私が言うのもなんですが、今の日本は情報過多で、情報の海は飽和するみたいにあふれかえっていて、何が本当か、何が重要か、わけがわからなくなりそうな状況です。そんな中で、梅原さんは毎回ポイントを押さえ、興味深いテーマを取り上げてこられました(注1)。
ただ、氏のキリスト教批判には賛成できない点があり、私の思うことを少し書いておきます。
「草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)」という言葉に示されるように、アミニズムが日本の思想的伝統というのはわかるにしても、それを一神教であるキリスト教と対立させてとらえるのはいががなものでしょうか。
梅原さんによると、西洋の多くの思想家は、アミニズム、多神教、一神教という発展段階を考え、「一神教の精髄がキリスト教」と考えているそうです。キリスト教文明が優れたものとされ、多神教やアミニズムは遅れている、未開の時代の古い宗教とみなされるのは、私も不満です。多神教やアミニズムを環境との調和や共生という面から再評価すべきだというのもわかります。
しかしながら「・・・・・この一神教は、人間のみが神の似姿である理性をもつことによって他の動植物よりはるかにすぐれていて、動植物に対する生殺与奪の権を与えられているという考えをもつ」といった見解には賛成できません。たとえば、太陽や月を兄弟姉妹と呼び、、病や死さえも兄弟姉妹として受け入れようとしたアシジのフランシスコがそのような考えを持っていたのでしょうか。フランシスコに限らず中世ヨーロッパの人たちは梅原さんがおっしゃるような考えを持って行動したのでしょうか。
キリスト教が社会の基盤であった中世ヨーロッパの人たちは乱開発などしませんでした。西洋の中世は5世紀頃から約千年続きましたが、それほどの長い間、大局的に見れば西洋人は自然と調和した生き方をしてきました。もし乱開発をしていれば千年間も続かなかったことでしょう。昔だから技術がなくて乱開発できなかったわけではありません。もっと昔のギリシア文明の時代でさえ、大規模な森林伐採による環境破壊が行なわれています。それがギリシア文明を衰退させた一因とみる人もいます。しかも、ギリシア文明は一神教ではありません。
ヨーロッパ人が動植物に対し、また有色人種に対しても、ひじょうに傲慢にふるまうようになったのは、15世紀以降(特に17世紀以降)でしょう。
アジア、アフリカ、ラテンアメリカへの進出、先住民の弾圧や殺戮、アフリカ人の奴隷化、止むことのない産業化、そして最近のイラク侵攻に至るまで、ずっと傲慢は止まりません。
どうも近代の西洋人には、自分たちは歴史の最先端にいる、進んでいる、だから偉いという思いがあったようです。人類の発展段階は一つの道であるかのごとく考え、自分たちはその先頭にいる考えていたようです。その後明らかになったとおり、そうした歴史観には無理がありました。(注2)
近代ヨーロッパ諸国がやったことの起源を、一神教に由来するとみるのはどうでしょう。むしろ私は、キリスト教的伝統からの逸脱と考えます。ではなぜヨーロッパ諸国がそうなったのか。それは、歴史の諸条件によってそうなったとしか言いようがないのではないかと思います。
人間が自然界を支配する根拠として、よく旧約聖書「創世記」の冒頭が挙げられるのですが、この箇所を「(人間は)他の動植物よりはるかにすぐれていて、動植物に対する生殺与奪の権を与えられている」とすると、新約に示されている「空の鳥を見よ」といったイエスの教えと矛盾してきます(「マタイによる福音書」5章他)。私はむしろ、万物を「神の被造物」と考えるのは、日本仏教の「草木国土悉皆成仏」の発想に近いのではないかと考えています。人間を含めすべてのものは神に造られた存在で、みな尊い、みな大切なものだと考えるのは「草木国土悉皆成仏」とそう変わらないのではないでしょうか。
キリスト教は人間を特別な存在とみているといいますが、事実、人間は特別な存在です。高度な道具や言語を使う存在は地球上で他に類がありません。でも、だからといって「偉い」のでしょうか。
私は、この「だから偉い」という発想こそ、キリスト教的伝統からの逸脱だと思うのです。
自然界に存在するものにはみな役割があります。天の父(神)は蒔きもせず紡ぎもしない空の鳥を養い、野の百合はソロモンの栄華にまさるというなら、「だから人間は偉い」なんてことにはならないでしょう。人間は理性を有する特別な存在であるのは事実ですが、だから偉いというのではなく、自然界の構成員の一員、一つのパートの担い手と考えるべきでしょう。人間は、理性を持つ者として、理性を善用し天から授けられた役割を果たしたかどうかが問われるのだと思います。(伊藤)
(注1)
ご参考まで「反時代的密語」の目次というか、各タイトルだけ書いておきます。
理性の復讐招く靖国参拝
神は二度死んだ(明治維新後の廃仏毀釈と敗戦後の天皇の人間宣言の2つ。引用者)
民主主義道徳の創造
ムツゴロウは復讐する
理想の旗を高く掲げよ
日本の伝統とは何か
プラトンの憂慮
仏教の道徳
道徳を忘れた仏教
二種廻向と親鸞
円空の語るもの
円空の和歌
西田哲学はロマンティシズムか(核戦争や環境破壊による人類絶滅の危険さえある現代、西田幾多郎の哲学を発展的に継承する展望についての論考。引用者)
和辻哲郎『風土』について
東アジア文明の語るもの
柳田国男の二つの仮説(『遠野物語』と『海上の道』。引用者)
怨霊を志願した人間(千利休のこと。引用者)
田中哲学をどうみるか(田中美知太郎の哲学。引用者)
演劇と哲学
アミニズムと生物学
なぜ、縄文文化か
天台本覚論とアイヌ思想
金田一理論の光と影(おなじみ金田一京助氏のアイヌ研究の業績と限界。引用者)
何かが語っている
(注2)20世紀の文化人類学の業績は大きいと思います。ちなみに私が福祉学生だった1980年代半ばでさえ、人類の発展段階を西洋史の型にはめてとらえようとする人が少なからずいて、では日本の「古代奴隷制社会」とはいつのことなのかと議論になったりしていました。
人類はこれまで進歩してきており未来に向かってさらに進歩していくという「歴史の法則」を信じる人たちは、自分たちが信じている「法則」に反する言動に対して「反動的」というレッテルを貼りたがりました。でも、現実の歴史は諸条件によって左右され、また偶然によっても左右され、モデルケースの通りになど進みません。そもそも「歴史の法則」があるのかどうかさえ疑問です。想像で「法則」をつくってそれを科学と呼ぶのは非科学です。
コメント