« 狩猟採集と農耕 | メイン | 幸福な家庭はどれも似たものだが・・・・・ »

苦難の意味

きのうも今日も山里は雪です。
昨晩は吹雪で、風がうなっていました。
こうして雪深い山の集落にいると、頭の中に、いろんなことが浮かんできます。

前に書いた苦難の意味についての問いに、私ははっきり答えることはできませんが、妻とその話していたら、こう言われました。
「もしかすると、苦難ていうのは、本当はみんなで少しずつ負うはずの重荷なのに、ある人たちが集中して負ってしまっているんじゃないの? だから、自分はああならなくてよかったっていうんじゃなくて、あの人が私にかわって重荷を負った、っていうふうに考えないといけないんじゃないの」。

それを聞いて私は、神谷美恵子(旧姓・前田)さんの若き日の詩を思いだしました。(その詩が載っている本が部屋にあったので、下に引用します。なお、1943年の作品であり、病気の呼称については当時の表現であることをご了承ください。)

苦難は何も、戦争や病だけではありません。現代の日本でも、過酷な労働で過労死したり過労自殺に追い込まれたりする人がいます。子どもへの虐待、老いた親への虐待事件もおきています。親子の不和、夫婦の不和だって、大変な苦難といえるでしょう。
なぜある人に苦難が集中してしまうのか、やはり私にはわかりませんけれど、妻が言うように、自分はああじゃなくて良かったなんて思いたくないのです。

「本来みんなで少しずつ負うべき重荷を、ある人たちが集中して負ってしまっている」、もしかすると「あの人が私にかわって重荷を負ったのかもしれない」、そういう認識に立てば、困難にある人をさげすむことなく、もっと相互扶助的に、共生をめざす方向に、ものごとを考えていけるのではないでしょうか。(伊藤)

癩者(らいしゃ)に  一九四三・夏

                前田美恵子

光うしないたる眼(まなこ)うつろに
肢(あし)うしないたる体担(にな)われて
診察台(だい)にどさりとのせられたる癩者よ、
私はあなたの前に首(こうべ)を垂れる。

あなたは黙っている。
かすかに微笑(ほほえ)んでさえいる。
ああしかし、その沈黙は、微笑は
長い戦いの後にかち得られたるものだ。

運命とすれすれに生きているあなたよ、
のがれようとて放さぬその鉄の手に
朝も昼も夜もつかまえられて、
十年、二十年と生きて来たあなたよ。

なぜ私たちでなくてあなたが?
あなたは代って下さったのだ、
代って人としてあらゆるものを奪われ、
地獄の責苦を悩みぬいて下さったのだ。

ゆるして下さい、癩者よ。
浅く、かろく、生の海の面(おも)に浮かび漂ようて、
そこはかとなく神だの霊魂だのと
きこえよき言葉あやつる私たちを。
かく心に叫びて首をたるれば、
あなたはただ黙っている。
そして傷(いた)ましくも歪められたる顔に、
かすかなる微笑みさえ浮かべている。

(引用は『神谷美恵子の世界』[みすず書房]2004によりました。なお、『神谷美恵子著作集9「遍歴」』所収の詩と多少の相違があるのは、作者自身の推敲でしょうか。時間の合間に書いているジネント山里記ですが、2005年度の最後に、敬愛する神谷美恵子先生の詩を引用できて、ちょっとカンゲキです。)

コメント

コメントを投稿

コメントは記事の投稿者が承認するまで表示されません。