« お金で買えないもの、ほか | メイン | 苦難の意味 »

狩猟採集と農耕

まず、前回の話に若干補足します。
妻が「世の中のほとんどのものはお金で買えない」と言うのは、商品のアイテム数の問題ではなく、「人間にとって本当に価値あるものは、ほとんどお金で買えないものばかり」という意味です。私はわかっていたつもりですが、この点、補足します。
考えてみれば、私たちは、太陽の恵みも、雨の恵みも、季節の移り変わりも、お金で買うことはできません。人類の共通遺産から各地の伝統文化、故人の思い出に至るまで、お金で買えないものばかりです。
妻が、「お金さえあれば誰でも買えるものの価値って、しょせん、それだけよ」と言うのは、まったくそのとおりだと思います。

さて、
産業文明社会は、長い人類史の中のわずかな特殊ケースであり、この特殊ケースが長期的に持続する保証はどこにもないと、前にも書きました。
人類史をどこまで遡ることができるのか、諸説があるにしても、猿に近かった時代から数えて数百万年、現代のような人間であれば数十万年、といったところでしょうか。農業の起源も、一万年以上前に遡るとしても、人類の歴史全体の中では短い期間です。

もしかすると私たちの祖先は、土を耕し始めたときに、すでに道を誤り、持続しない方向に歩みだしたのかも知れません。
狩猟採集を中心とした原始時代、人は比較的平等であったのに、農耕を中心とした社会になると権力者が出現しています。
開墾し耕せば生産力が上がります。生産を向上させた者は富かになり、人を使ってますます生産を向上させ、さらに豊になって権力者になっていったのでしょう。もともとは、農業知識が豊富な者、農具の改良に成功した者、金属の精錬や加工に成功してこれを農具に使用した者、また、こうした技術を受け継ぐ者だったのかも知れません。金属の技術を持つ集団であれば、金属製の武器を作り、金属を持たない人たちを倒してますます「勝ち組」になったでしょうから、それは、その後の軍事国家、帝国主義国家のはしりのように思えます。
農耕の初めから今日まで、時代の背景は違っても、人のやってきたことは、たぶん一緒です。
現代の機械工業、そして最近の電子化の時代になって、生産はますます膨大になり、世の中はますます持続しない方向へ加速して走っておりますが、その起源は、農耕の開始にあるのかもしれないのです。

異論もあるでしょうが、日本列島を例に考えた場合、農耕以降の生産拡大の路線と対極に思えるのが、縄文文化であり、縄文文化を受け継いでいると考えられるアイヌ文化です。弥生と縄文を、「進んでいた」とか「遅れていた」とか、対比させるのはどうかと思います。遺跡から明らかなとおり、縄文人は農業を知っていて稲作の技術もあったからです。しかし、農業生産の拡大を追及せず、農業は補助的なものとし、生活の中心は狩猟採集でした。アイヌの人々もまた、感謝の念を持って自然から必要な恵みを得、とりすぎることをせず、長期的に持続可能な生活をしてきました。

こんな話をすると、原始時代に戻れというのか、と言われそうです。たしかに、現代の日本で、狩猟採集を中心に暮らすのは、ちょっと無理だろうと私も思います。でも、長期的に持続可能な縄文型の生活と、持続しない方向に進みだした農耕以降の生活と、どっちが幸せなのだろうかと私は思ってしまうのです(伊藤)。

追記:山里暮らしを始めて1年になりました。記念すべき1年目に、こんな話を書いてしまいました。

コメント

コメントを投稿

コメントは記事の投稿者が承認するまで表示されません。