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囲炉裏の復活

お盆を過ぎてからは、朝晩、ずいぶん涼しくなりました。
土手一面にススキの穂が出てきました。。ミズヒキグサがその名のとおり赤い水引みたいな花を咲かせています。風立ちぬ、といったところでしょうか。
あれほど賑やかだったセミたちの声が弱まり、かわってコオロギやスイッチョといった秋の虫たちが鳴き出しました。地上での短い生を終えたセミの屍骸に、アリが黒く群がっています。昆虫たちの屍骸は、他の生命を養って、最後は土に還って植物を育むでしょうから、わが家のまわりでも、そうして命が巡ってゆきます。

囲炉裏の補修が終わり、横座(家の主人の座)に座って火を焚いてみました。炎を上げて燃えているときや完全にオキになってからは煙くないのですが、炎が上がらず燻りだすとけっこう煙いです。うまく燃やすにはコツがいるようです。
ある程度、火を焚く練習をしてから、魚を焼いてみました。囲炉裏の中が全部灰だと、串がうまく立たなくて魚が倒れやすいと聞いたので、中には砂を入れ、上の方にだけ灰を入れてあります。魚は地元のヒメマス(淡水魚)を使ってみました。ヒメマスに天日塩をよく振ってすりこみ、長めの竹串を通しました。そして、囲炉裏に火を焚いて、時代劇や映画に出てくるみたいに火のまわりに刺して立てました。
はじめはヌルッとしていた魚の表面が乾いてきて、余分な汁が串づたいに流れ落ち、やがて全体がこんがりと焼けていい香りが漂ってきました。火はパチパチと音をたて、木が燃える匂いと魚の焼ける匂いが混じり合い、よく見ようとして顔を近づけると煙で目が痛くなったりするんですが、何だか懐かしいような気分でした。
「懐かしいような」といっても、実は、やったことがなかったんです。小学2年まで住んだ私の生家には囲炉裏がありましたが、ほとんど使っておらず、魚を焼いたりすることはありませんでした。囲炉裏で魚を焼いたのはそのときが初めてなのに、懐かしいような気持になるという、不思議な感覚でした。
初めてのことでもあり、焼くのには少し時間がかかりましたが、はっきり言って、炭焼きよりうまいです。煙で燻される効果もあるようで、一種の燻製のような香ばしい風味もあります。炭焼きだってかなりおいしいのですが、囲炉裏で焼いた魚は今まで食べたことのない絶品でした。なんでこんなにうまい食べ方を、日本人はやめてしまったんだろうと思いました。
まったく同じ魚でも、電磁調理器を使えばファーストフード同等に落ちてしまい、ガスはまだまし、炭はもっと良くて、囲炉裏は最高、というのが私の結論です。
囲炉裏で魚を焼くのを子どもたちに見せたのですが、喜んだのなんの。外で焚き火をしたって嬉しいのに、家の中で焚き火みたいなことをして魚を焼くんですから、もう、大喜びでした。
裸電球の明かりをつけ、私が横座に座り、妻に、かか座(主婦の座)に座ってもらい、子どもたちは好きな所に座らせ、囲炉裏の火を囲んで食事をしてみました。
昔はそんな風にして食事をしていたのでしょう。大正から昭和にかけて、ちゃぶ台が普及してきてからも、家族は集まってちゃぶ台を囲んでいたことでしょうし。
今、街中では近所づきあいが切れてきましたが、家の中でさえ、家族が集まらなくなったと聞きます。今後、住宅の電化がますます進み、どの部屋も常時空調完備・テレビもインターネットも完備なんてなれば、ますます家族は切り離されてゆくことでしょう。便利さや楽ちんを追求することと、家族の幸せとは別の問題だと私は思うのですけれど・・・・・。
山里の暮らしは不便とされていますが、わが家はなるべく自然と調和して生きることを願い、家族で苦楽を共にしながら、ささやかな生活を楽しんでいます。こうして山里におりますと、お金はかからないし、日々、けっこう楽しめることが多いです。(伊藤)

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