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山里の自然の中で

山里暮らしをしておりますと、いろいろな自然の生き物を目にします。
この時期ですと、たとえばセミ。朝4時頃から、まずヒグラシの大合唱が始まります。ヒグラシというと夕暮れの林の中で寂しげに鳴くイメージがありますが、ここでは朝から大合唱です。そのうちアブラゼミやミンミンゼミも鳴き出し、わが家は大音響に包まれるのですが、うるさいと感じないから不思議です。

朝5時、露にぬれた畑に出て、草を刈り、舗装道路まで出る通路を見回り、その日に食べる野菜を少し収穫してきます。道を見回るのは防犯上の理由ではなく、雑草が伸びて通りにくくなっているといけないから、朝の散歩と草刈りを兼ねてやっています。この季節、雑草は1日でけっこう伸びます。カマを使っての草刈りは、機械のように能率的でないかもしれませんが、ていねいな作業ができるので好きです。ガソリンも電気もいらないし、虫やカタツムリを傷つけずにすみますから。朝もやの中、涼しいうちに体を動かすのは楽しいです。
山里のカタツムリは一回り大きく、色も少し黒味がかっていて、見るからにたくましそうです。まれに、別の種類で、平べったくて殻に毛の生えたカタツムリを見ることがあります。これは山里に来て初めて見つけました。
畑と通路を一回りしてから、家に戻って朝食です。平日の朝食はいつも和食で、家庭菜園の野菜が食卓に上ります。
食後にコーヒーを飲み、新聞に少し目を通し、それから妻と子どもたちに見送られてジープで出勤です(なるべく地元産の食品や物品で暮らすのが理想ですが、コーヒーは学生の時からの習慣でやめられません)。ふもとに下りるまで自動車とすれ違うのはまれです。下りてからも田舎道ですが、通勤らしい自動車がスピードを出して走り抜けて行くこともあります。国道に出ると、さらに殺気立ったような運転に出くわすこともあります。街に近づくほど、のんびりした光景から遠ざかります。

仕事で街中にいると暑いですし、めんどうな仕事もあります。街の雰囲気に疲れることもあります。でも、夕方、その日の仕事を終えて、ドアなしジープでふもとまで帰って来るとほっとします。あとはセミしぐれの山道をぐっと駆け上がるのですが、木立の中、緑の匂いのする涼風を体に受けながら上がって行くのは爽快です。
集落に入ると、農家の人が呼び止めて野菜をわけてくれたりします。ありがたいです。
帰り道、タヌキが歩いて行くのを見かけることがあります。たまに夜道を走ると、キツネが道を横切ったりします。「子連れのハクビシンを見た」という人もいますが、私は今のところ未確認です。先日の夜にわが家に来たのは、やはりアナグマだったようです。

おとといの夜、家の中にカブトムシが飛び込んで来ました。舗装道路まで行ってみたら、街灯の下でまたカブトムシを2匹見つけました。夜、玄関の明りのまわりでは、たくさんのセミや蛾や小さな虫たちが飛んで来て大騒ぎです。小さな虫をねらってカエルもやって来ます。
休みの日に家にいると、家のまわりでトカゲやヘビを見かけることもあります。よく「トカゲのシッポ」と言いますが、シッポは金属的な光沢があり、玉虫色に光ってきれいです。

カエルが虫を食べ、ヘビがカエルを食べ、猛禽やある種の動物がヘビを食べる、というわけです。猛禽や動物も死ねば他の生き物に食われ、最終的には土に還って植物の肥やしになり、その植物を虫が食べ・・・・というように(実際はもっと複雑でしょうが)、自然界の循環が続くわけです。弱肉強食のようにも見えますが、共存共栄のようにも見えます。
自然農法家の福岡正信さんがおっしゃるように、「自然は完全なものとして完成している」というのが事実でしょう。それに対して「人為は不完全」なので、人の為すことには限界がつきまとうわけです。
自然に対する人間は、しょせん、お釈迦様の手のひらの上の孫悟空のようなものかもしれません。
「自然破壊」と言いますが、それは人間が、自然のある面を人間が住みにくい状態に変えているだけの話です。たとえ、人類が自らの愚かさによって絶滅したとしても、そんなことにおかまいなく何らかの自然は残り、そこから自然は展開してゆくことでしょう。まるで人類の存在などなかったかのように。

この山里に来て、自然の偉大さ実感するようになり、自然への畏敬の念を深めています。そう思えば思うほど、身近な自然の恵みと大切さをますます感じるようになりました。(伊藤)

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