闘うから闘いになる
きのうの雨が嘘のような快晴で、暑いくらいになりました。。
今朝も、いつものように朝5時に起きて、家のまわりの草刈りをしてきました。わが家の不耕起の家庭菜園では、5月の休みに植えたジャガイモが元気に芽を出して育っています。ナスやトマトの花も咲きました。先週播いたコマツナが芽を出し、かわいい双葉を広げています。
雨がいちばんの肥料だと言っていた人がいましたが、たしかに雨が降り気温が上がれば植物はいきいきしてきます。畑の作物は元気になり、雑草もよく育ちます。私は、考えあって、雑草は鎌で刈るくらいであまり根を抜いたりはしません。
冬は雪との闘いだ、とか、夏は草との闘いだ、とか、言う人もいます。そう言いたくなる気持もわかるのですが、闘うから闘いになるのではないかと思えるのです。
除雪は大変な作業ですが、カンジキで雪の上を歩くのは、それほど大変ではありません。雪おろしも大変ですが、わが家のように屋根の雪が引力で自然落下するようにしておけば、おろす必要はありません。自然落下の雪で1階が埋まってしまいますが、そのときは2階から出入りすればいいだけの話です。
草もそうです。畑に草があれば保湿になるし、雨が降っても泥はねや土の流出がおきません。草を抜かずに刈るだけにして、刈った草を畝(うね)や畝間に敷いておけば自然のマルチになり、やがては分解して肥料になります。ビニールのマルチのようにお金もかからず、あとから除去する手間もありません。私が思うにいいことだけですが、こんな畑のやり方は、たぶん、非常に少数派でしょう。
農協の指導員さんたちの中には「雑草も枯れ草も害虫の住み家になるから、雑草はまめに抜くか除草剤を撒くかし、草や作物の残渣(ざんさ)は、すぐに畑から撤去しないといけない」とおっしゃる方が多いのです。私がやっていることと正反対ですが、指導員の言い分は化学農法の発想で、それはそれで理屈のあることですから、私は反論しません。けれど、私としては、家庭菜園にまで化学農法を持ち込みたくないのです。
雑草や枯れ草は害虫の住み家といいますが、益虫の住み家にもなるので、実は均衡がとれて、害虫か益虫か分類することにあまり意味がなくなります。この山里に引っ越してくる前の私の経験でもそうですが、畑を不耕起にし、草を抜かずに鎌で刈るだけにしておけば、特定の害虫が増えることはなく、農薬は一切必要ありません。だんだんに土も肥え、肥料もほとんどいらなくなります。(例えば、徳野雅仁著『完全版 農薬を使わない野菜づくり』[洋泉社]参照。不耕起栽培についてはいろいろな本がありますが、先駆的なものとして福岡正信『わら一本の革命』[春秋社]が有名。)
不耕起というと、土が固くなるのではないかとイメージする人がいますが、逆です。不耕起・草マルチを続けると、腐植が多くなり、ミミズが増え、野原の土のように柔らかくなります。排水も保湿もよく、適当に粘りもあるいい土になるのです。いい土を人工的に作るのは大変でしょうが、自然に任せれば簡単に出来るのです。
では、なぜプロ農家はそうしないのでしょうか。プロ農家の場合、作物の均一性や供給の安定性を求められるので、どうしても工業的な化学農法になるのだろうと思います。それは農家が悪いのではなくて、消費者のほうが均一な形の農産物の安定した供給を求める結果なのでしょう。化学薬品や工業機械を使いだした農業は、どこまでもその方向で進んでいくしかないようです。そうして、雑草や害虫を相手に化学や機械の力で闘うわけです。はじめから闘わなければ闘いにならないのに。
繰り返しますが、農家が悪いのではありません。農家は消費者の求めに応じ、大変な中で一生懸命やっているんです。今の世の中、農業もまた産業であり、工業に類した生産活動のひとつです。他の産業と同じで、もう、自然界の中での循環の環を持続させる営みから離れてきました。農薬も化学肥料も、農業資材、農機具、燃料等々も、みんな工業製品で、未来永劫持続する循環の中にありません。
じねんと生きようとする私は、無精者に見えるかも知れません。でも、私は、自然を相手に闘うことをやめただけです。闘うから闘いになるし、闘いだせばどこまでも闘い続けないといけなくなりますから。
じねんと、じねんと。そんなに急いでどこへ行く。(伊藤)
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