創作・田川建三先生のための祈り
あるプロテスタントのクリスチャンが田川建三先生を思って祈りを捧げました。
憐れみ深い天の父よ。
あなたがこの世からお召しになった田川建三先生を思い、祈ります。
田川先生は新約学研究に生涯を捧げられ、数多くの人を聖書に導いてくださいました。私も先生の著書から導かれた者の一人です。
もし、私が田川先生の著書に出会わなかったなら、聖書の教えは過去の時代のものであり現代の世界には対応していないと考え、聖書からもキリスト教からも離れていたかもしれません。田川先生の見解は、私が離れてゆくのを思いとどまらせてくれました。
キリストにあるすべての者の復活を約束された主よ。あなたを信じて祈ります。
あなたの慈しみのうちに田川先生を安らかに憩わせ、永遠の命へと導いてください。
主イエス・キリストの御名によって。
アーメン。
別のクリスチャンも祈りました。
愛する天のお父様。
私の人生の大切な時期に、田川建三先生との出会いを与えてくださったことを感謝します。
先生は私に知識を教えてくださっただけでなく、人生を歩む力や勇気を与えてくださいました。
その言葉や姿勢は、今も私の心に生きています。
主よ、あなたがお召しになった田川先生を思い、祈ります。
地上での歩みを終え、すべての労苦から解き放たれた先生が、あなたの光のもとで永遠の平和と喜びのうちに安らかに憩うことができますように。
また私自身も、先生からいただいた教えや励ましを、これからの歩みの中で生かしていくことができますように。そしてこの恵みを、周りの人々に伝えていくことができますように。
主キリストによって。アーメン。
二人の祈りを聞いていた「福音派」のクリスチャンが言いました。
「あなた方はプロテスタントでしょ。死者のために祈っていいんですか? 死者のための祈りには聖書的根拠がありません。それは間違った信仰です」
一人が答えて言いました。
「カトリックにも、正教会にも、プロテスタントである聖公会にも死者を思う祈りはあります。亡くなった人を思って祈るのは人として当然の感情で、否定すべきではないと思います。それに、聖書のどこにも死者を思う祈りを禁じる箇所はありません」
もう一人の人が言いました。
「天国に教派なんてありませんよ」
「福音派」の人が言いました。
「あなた方は間違っています。田川建三は異端者です。あなた方も聖書批評学や自由主義神学に毒され、異端の影響を受けているようです。異端者にはいかなる救いもありません。間違った信仰を離れ、正しい信仰に立ち返るべきです」
一人が答えて言いました。
「自分と同じ教会に属する人がその教会の教義と違うことを言いだしたら異端かもしれませんが、自分の所属教会の外の人に対して異端認定なんて出来るんですか?」
もう一人が言いました。
「キリスト教は多くの教派に分かれています。教派に分かれているというのは教義や神学に何か違いがあるからです。もし完全に一致しているなら、組織が合同して一つの教派になるでしょう。そうならないくらい違いがあるのです。自分とは教義や神学が違うから異端だと言うのなら、自分の所属教派以外のクリスチャンはすべて異端派だということになりませんか」
(伊藤一滴)
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