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偽書、偽史

正月休みに、オリオン・クラウタウ著『隠された聖徳太子 近現代日本の偽史とオカルト文化』 (ちくま新書 2024)を読んだ。読みながら、いろいろ考えてしまった。

聖徳太子にまつわる話は、なかなかおもしろい。今日に至るまで、聖徳太子はさまざまな伝説・創作を交えて語られている。聖徳太子は架空の人物だという説まである。そうした点は、イエスに関する伝説、創作、架空説とも似ている。

著者は、異説をトンデモ論として切り捨てるのではなく、その裏面に秘められる意図を考慮すべきだと言う。そうだと思う。「トンデモ論だ、論じるに値しない」と無視するのではなくて、なぜトンデモ論が主張され、トンデモ論の本が売れ、どう考えても成り立たないような「論」を一定数の人が信じてしまうのか。文化的、社会的に考えるべきだと思う。

聖徳太子はキリスト教と関係がある?、古代日本はキリスト教の影響を受けていた?、日本人とユダヤ人は同祖である? そして、さまざまな「マイ聖徳太子」の出現などもある。そういった「論」や、それに対する反証が多角的に紹介される。

佐伯好郎、E.ゴルドン、中里介山、
内村鑑三、手島郁郎、
久保有政、イザヤ・ベンダサン、五島勉、
梅原猛、山岸凉子、井上章一、雑誌「ムー」、
他、いろいろ、

と、まあ、そっち方面の「論」者から、学術的な研究者、漫画家、オカルト雑誌まで、いろいろ出てきて興味が尽きない。

それにしても、なぜ、一定数の人が、どう考えても成り立たない「論」を信じ、反証されても、「論」のネタや嘘がばれてさえ、それでもなお信じ続けるのだろうか。これは、原理主義、カルト宗教、陰謀論、極右や極左の主張などを本気で信じる人が一定数いるのと似ているように思う。

(インターネットのおかげでフェイクも広まりやすくなったが、逆に、トンデモ論のネタや嘘を検索しやすくもなった。)

くだらない、馬鹿馬鹿しいとされ、まともに相手にされなかったトンデモ論やオカルトに、文化的、社会的に光を当てて学問的に論じたのが、このオリオン・クラウタウ氏なのだろう。外国人が日本の古典から雑誌「ムー」まで読みこなし、日本語で論ずる能力にも圧倒される。


この本の主要なテーマとはやや異なるのだが、偽書や偽史って、いったい何だろうかと考えていた。

偽書という言葉からまず思うのは、『シオン賢者の議定書』(=『シオンの議定書』)だ。「第一回シオニスト会議」でのユダヤ人の長老による決議文という形で書かれたこの偽書は、本当に決議された文書と見なされて各国語に訳され、反ユダヤ主義を煽り、ナチスによる大規模なユダヤ人迫害にもつながったという。

日本においては、『上記(うえつふみ)』『竹内文書(たけのうちもんじょ)』『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』といった書が、偽書とされ、知られている。

一般には、本物に見せかけた偽の文書を「偽書」と呼ぶようだ。そして、そこに記された嘘の歴史が「偽史」なのだろう。

だが、学問的に歴史を論じるのに使われる史料にだって、不正確な記述や誤った記述もある。ある立場から都合よく書かれたものもある。
いったいどこからが「偽書」「偽史」になるのだろう。

私の手元に「金田一京助」の名による辞書が何冊かある。実際は、金田一京助先生は辞書の編集など1冊もしていなくて、すべて名前を貸しただけだそうだ。ではこれらの辞書は偽書なのか。

私が学生のとき、ある授業の教科書が、A先生とB先生の共著となっていた。私はB先生の授業を受けたのだが、B先生は授業中に「この教科書は全部私が書きました。A先生は有名だからお名前を借りて共同執筆ということにしたんです」と言っていた。学者の世界ではよくあるらしい。これも、著者名に偽りがある偽書なのか。

さらに、聖書はどうなるのか、仏典はどうなるのか、と思った。

マルコ福音書、ルカ福音書の著者については議論の余地があるにしても(田川建三訳註参照)、マタイ福音書が使徒マタイの著書でないこと、ヨハネ福音書が使徒ヨハネの著書でないことは、今では明白だ。では、これらは偽書なのか。
パウロの書簡とされている書の中にはパウロの作でないものが含まれているし、ヤコブ、ペトロ前後書、ヨハネ3巻、ユダ、黙示録など、実在したヤコブ、ペトロ、ヨハネ、ユダらとは何の関係もない。これらも偽書になるのか。
旧約聖書はもちろん、新約聖書に記された「歴史」も、史実とはだいぶ違うようだ。つまり、偽史なのか。

仏典にしても「仏説〇〇経」が多数あるが、実際の仏陀がそうおっしゃったというのではなくて、ほとんどが後に書かれたものだという。では、仏教のそうした経も偽書なのか。

うーむ。

モルモン経はどうなるのだろう。
「モルモン経なんて偽書で、内容は偽史だ」というのなら、聖書も仏典も偽書で、内容は偽史ということにならないか。

何をもって偽書、偽史と言うのか、難しくなる。

そんなことを考えていた。

(伊藤一滴)


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