神の殺人命令
おことわり:今回、旧約聖書の記述やそれに対する私の思いを書いたのですが、記事に暴力的な記述や性的な記述があります。あんまり書くと有害サイトだと思われてしまうというご指摘があり、また、私も、怒って書き過ぎてしまった箇所があると思ったので、表現の一部を改めました。
それにしても、旧約聖書のある箇所を引用したら有害サイトになるんでしょうか。旧約聖書って、有害図書?(2024.10.21追記)
現在、イスラエルはパレスチナのガザやレバノンを攻撃し、民間人の犠牲が止まらない。すでに多くの無辜の血が流されているが、イスラエルのネタニヤフ政権は自制を求める国際世論など、はなから無視しているようだ。
死者はガザ地区だけで4万人を越えている。負傷者は数知れない。被害者の家族はイスラエル軍を激しく憎むことだろう。たとえイスラエルがハマスやヒズボラを壊滅させたとしても、今後、被害者の家族や同調者の中に、新たな武装組織をつくってイスラエルに立ち向かう人も相当数でてくるのではないか。捨て身の戦術で向かってくるかもしれない。
これまでもそうだったが、今のイスラエルは脅威をなくすのではなく、やがて脅威となる予備軍をつくりだしている。そうやってイスラエルは未来に向かって無限の戦いを挑んでいる。自分たちも今後ずっと緊張を強いられるのに。
現代のイスラエルによる民間人殺傷を思いながら、旧約聖書の民数記を読んでいた。
民数記、申命記、ヨシュア記と、神が殺人を、それも大量虐殺を命じている箇所が多い。
そういえば佐倉哲さんが「聖書における神の殺人命令」についてコメントしていたと思い、ネットを見たらすぐ見つかった。次の箇所だ。
https://www.j-world.com/usr/sakura/other_religions/divine_murder.html
長くなるが、一部を引用する。(佐倉さんの文章には固有名詞の不統一やタイプミスと思われる箇所もあるが、そのまま引用する。)
引用開始
現代のクリスチャン
このような聖書における神の殺人命令は、現代のクリスチャンに少なからぬ困惑をもたらします。そこで、あるクリスチャンはつぎのような正当化を試みます。
モーゼの時代には、戦争をして相手を殺さねばイスラエル人が殺される状況だったのである。
このクリスチャンは聖書を自分の目で読まれたことがないのかもしれません。出エジプト記や申命記やヨシュア記や民数記を読めば明らかなように、そもそも、先住民カナンの人々の土地を、「神がわれわれの先祖にに与えると約束してくださった土地」などという手前勝手な理由で侵略したのは聖書の神の命令にしたがった「神の民、イスラエル」だったのであり、自己防衛を強いられたのはイスラエル人に侵略されたカナンの地の人々だったというのが、繰り返し繰り返し語られている聖書の記述だからです。
それに加えて、たとえば、つぎのような記述をみれば、聖書の神の殺人命令が自己防衛などではなかったことは、あまりにもあきらかと言わねばなりません。
モーセは、戦いを終えて帰還した軍の指揮官たち、千人隊長、百人隊長に向かって怒り、かれらにこう言った。「女たちを皆、生かしておいたのか。ペオルの事件は、この女たちがバラムにそそのかされ、イスラエルの人々をヤーヴェに背かせて引き起こしたもので、そのためにヤーヴェの共同体に災いが下ったではないか。直ちに、子供たちのうち、男の子は皆、殺せ。男と寝て男を知っている女も皆、殺せ。女のうち、まだ男と寝ず、男を知らない娘は、あなたたちのために生かしておくがよい。」
(民数記 31章14〜18節)
このペオルの事件というのは、モーセに率いられたイスラエル人たちがシティムという所に滞在していたとき、その土地のミディアン人の女性たちが、イスラエルの民たちを食事に招いて、その地方の宗教であったバアル神を拝む儀式に参加させたことに端を発しています。イスラエル人がこのようにして他宗教の神を拝んだので、聖書の神ヤーウェは怒り、モーセに対して、イスラエルの「民の長たちをことごとく捕らえ、主の御前で彼らを処刑にし、白日の下にさらしなさい」と命じ、モーセは裁判人に対して、「おのおの、自分の配下で、ペオルのバアルを慕ったものを殺しなさい」という厳しい粛正を命じのです。この粛正事件で、2万4千人のイスラエル人が処刑されたと記録されていますが、それが、ペオルの事件でした。(民数記25章)
このため、イスラエルの神ヤーヴェは、モーセに次のように命令します。「ミディアン人を襲い、彼らを撃ちなさい。彼らは、おまえたちを巧みに惑わして襲い、ペオルの事件を引き起こした」からだ。この神の命令に従って、モーセが、「あなたたちの中から、戦いのために人を出して武装させなさい。ミディアン人を襲い、ミディアン人に対してヤーヴェのために報復するのだ」(民数記31章1〜3節)、と命令して起きたのが、この戦争だったのです。
昔も今と同じように、軍隊というものは女や子供を殺すことには躊躇したのでしょうか、モーセの軍隊は女や子供は殺さないで帰ってきたのです。ところが、そのために、「女たちを皆、生かしておいたのか」とモーセは大変怒ったのです。それで、「男と寝ず、男を知らない女」は自分たちのために捕虜にし、他はすべて、女も子供も殺せ、と再命令したのでした。
そして、最後に分捕り品が山分けされます。
モーセと祭司エルアザルは主がモーセに命じられたとおりにした。分捕ったもの、すなわち兵士が略奪したものの残りは、羊六十七万五千匹、牛七万二千頭、ろば六万一千頭、人は、男と寝ず、男を知らない女が全部で三万二千人であった。戦いに出た者の分け前は、その半数であって、羊の数は三十三万七千五百匹、その羊のうち、主にささげる分は六百七十五匹、・・・人は一万六千人、そのうち主にささげる分は三十二人であった。・・・部隊の指揮官である千人隊長、百人隊長がモーセの前に進み出て、言った。「・・・わたしたちは、めいめいで手に入れた腕飾り、腕輪、指輪、耳輪、首飾りなど金の飾り物を捧げ物として主にささげ、主の御前に、わたしたち自身のあがないの儀式をしたいのです。」モーセと祭司エルアザルは、彼らから金の飾り物をすべて受け取った。それらはよく細工されたものであった。・・・モーセと祭司エルアザルは、千人隊長と百人隊長から金を受け取り、臨在の幕屋に携えて行って、主の御前に、イスラエルの人々のための記念とした。
(民数記31章31〜54節)
このような戦争は、生存のための自衛の戦争ではなく、宗教的情熱によって正当化された宗教戦争であり、強欲な略奪戦争としか考えられません。
引用終了
神がかり的に敵を殲滅する発想は、現代のイスラエルに、そして一般のキリスト教徒の一部にも受け継がれているように思えてならない。
佐倉さんはこうおっしゃる、
「そもそも、先住民カナンの人々の土地を、「神がわれわれの先祖にに与えると約束してくださった土地」などという手前勝手な理由で侵略したのは聖書の神の命令にしたがった「神の民、イスラエル」だったのであり、自己防衛を強いられたのはイスラエル人に侵略されたカナンの地の人々だったというのが、繰り返し繰り返し語られている聖書の記述だからです。」
カナンをパレスチナと置き換えれば現代のことのようだ。
旧約聖書における神の殺人命令を、「神が命じた聖絶です」と正当化したとしても、こうも書いてある。
「直ちに、子供たちのうち、男の子は皆、殺せ。男と寝て男を知っている女も皆、殺せ。女のうち、まだ男と寝ず、男を知らない娘は、あなたたちのために生かしておくがよい。」
モーセが命じたこの箇所をどう正当化するのだろう。
これはようするに、男を知らない女だけはあなたたちのために生かしておいて奴隷にするがよい、ということだろう。素直に読めば、戦ったイスラエルの民に戦利品として男を知らない女を与えるから好きにしてよい、と読める。
おぞましくなる。
それに、「男と寝ず、男を知らない女」かどうか、どうやって区別したのだろう。本人に聞いたって、本当のことを言うかどうかわからない。
イスラエルの男たちは、戦利品として拉致してきた女たちにひどいことをして確かめたのだろうか。
「聖絶」も平気なわけだから、かなりひどい調べ方をして殺すか奴隷にして生かすか区別したのかもしれない。
ますますおぞましいではないか。
しかも、「(戦いに出た者の分け前は)人は一万六千人、そのうち主にささげる分は三十二人であった」と書いてあるのだから、こうして手に入れた「男を知らない女」のうち32人は、いけにえとして神ヤーウェへの捧げものにされた、ということだ。燔祭(全焼のいけにえ=焼き尽くす献げ物)にでもしてしまったのか。
ユダヤ教の原理主義者にもキリスト教の原理主義者にも女性がいる。原理主義者の女性らはこうした聖書の記述を読んで気分が悪くならないのだろうか。こうした箇所さえ、「聖書は一字一句に至るまで誤りなき神の御言葉です」と正当化するのだろうか。
イエスは旧約の教えを克服した。否定したのではなく克服した。愛と平和の教えで旧約を克服することにより、旧約を完成させた、とも言える。
イエスが克服した旧約の教えを現代に当てはめようとする自称「キリスト教」・自称「福音派」には気をつけた方がいい。彼らも「キリスト教」の「福音派」を称するから、愛と平和を求める一般の福音派(原理主義でない福音派)が迷惑している。
「福音派」を自称する原理主義者、イスラエル支持者・好戦論者らに乗せられてはいけない。
(伊藤一滴)
ご参考1:永野牧師の見解
牧師泣かせな聖書箇所 エリコの大虐殺
http://blog.livedoor.jp/yokoya2000/archives/903398.html
「エリコの大虐殺」は別の話だが、神が命じた大虐殺の1つである。
ご参考2:一般のキリスト教会の見解は?
実は、旧約聖書に見られる虐殺や「男を知らない女」たちの奴隷化についての一般のキリスト教会の見解はほとんど見当たらない。注解書も、紙の単行本も、ネットの記事も、簡単に触れる程度で(あるいは無視で)、どう考えるべきかという深い考察に出会ったことがない。
数千年前の考えを現代人の思考で非難すべきではないという人もいるが、そんなことを言ったらイエスの教えだって2千年前の教えだ。それを現代に当てはめてどうこう言うべきではないという話になってしまう。
かつて私が出会った自称「福音派」の中に、イスラエルは神の命令によって「邪悪な民を聖絶した」と主張する人たちがいた。仮にそうだとしても、神の聖絶命令は乳幼児も容赦しない。乳幼児も邪悪な存在なのかと問うと「乳幼児に罪はないから彼らは天国に行ったのだ。そのまま大きくなったら悪事に染まって地獄に行くことになったから、幼いうちに聖絶されてよかったのだ」と答えた人もいた。では奴隷にされた「男を知らない女」たちはどうなのかと思ったのだが、そこまでは聞かなかった。たぶん、「彼女らはイスラエル人の奴隷になることで本当の神様に出会い、救いのチャンスを得た。だからよかった」といった答えが返ってきたのだろう。「アメリカの黒人奴隷は奴隷にされてよかった、奴隷にされずにアフリカにいたら本当の神様に出会うチャンスがなくて救われなかった」と言っていた「福音派」もいたのだから。
「邪悪な人間たちは抹殺してよい」「乳幼児は天国に行けるから一緒に抹殺するのはなおのことよい」といった考えは、恐ろしい考えだと思う。かつてアメリカ大陸に移住したヨーロッパ人による「インディアン」殺しや、パレスチナに移住したユダヤ人による先住者殺し(これは今も続く)と、どうも共通する考えに思えてならない。
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ジネント山里記 site:ic-blog.jp(検索)
(スポンサーの広告が出てくることがありますが、私の見解とは一切関係ありません。)
過去に書いたものは、こちらからも読めます。
http://yamazato.ic-blog.jp/home/archives.html
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