創作 あるクリスチャン青年の問い 「結婚したい人がいるんですが」
私は長くプロテスタントの長老教会の牧師を務めてきた。
長老教会だから、教会には信者から選ばれた長老たちがいる。知らない人が長老と聞くと高齢者をイメージするようだが、これは信徒の役職名であり、中には若い長老もいる。
私が牧会する教会の長老の一人は二十代の青年だ。彼は小さい時から教会に通い、熱心に聖書を学んできた。キリスト教系の大学を卒業し、今、母校の大学の付属高校の教員をしている。彼は知的で人格も優れ、みんなから好かれており、長老の一人に選ばれた。これまで誠実に教会に奉仕してきた。
ある時、彼が、「折り入ってご相談したいことがあるのですが」と言うので、牧師館に来てもらって二人だけで話をした。
「牧師先生、実は、僕、結婚したい人がいるんですが」
と彼は言った。
「その方は信者さんですか?」
と私は聞いた。信者以外と結婚してはいけないわけではないが、価値観がまるで違う人と結婚して破綻した例をいくつも知っていたからだ。
「はい、信者です。教会は違いますが」
と彼は言った。
「それはおめでとう。嬉しいです。キリスト教を信じて価値観を共有できる人とならうまくやってゆけるでしょう。ところで、その女性はどちらの教会の方ですか?」
「〇〇教会の人ですが・・・。先生、実は、相手は女性ではなく、男性です。今まで言わずにきましたが、僕は、どうしても女性を恋愛の対象として見ることができません。以前から僕の恋愛の対象は男性でした。これは、僕が持って生まれた資質なのだろうと思います。非難する人もいるでしょう。でも、生まれつきのことで非難されるのは、生まれつきの盲人が非難されるのと同じだと思います。今の日本では、法律上、同性同士の結婚が認められないので、事実婚のような形になるのでしょう。この教会で結婚式を挙げることは可能でしょうか? 祝福していただけますか? それとも、僕は、聖書に反する罪を犯したとして、教会から出ないといけないのでしょうか?」
予想外の言葉に私は驚き、返事に困った。以前からこの青年に接してきたが、彼のそうした性的な志向にはまったく気づいていなかった。答えなければならない。真剣に問う彼に答えるのは、牧師としての義務だ。だが、どう答えればいいのだろう。何か言わなければと思いながら、焦った。
「それは・・・。性的マイノリティーに関して、私も、どう答えればいいのか、すぐに言葉が出てきません。少し、時間をください」
やっとのことで、そう言った。私の声はうわずり、手が震えていた。そんな私とは逆に、彼は落ち着いていた。覚悟を決めて来たのだろう。落ち着いた声でこう言った。
「僕は小さい時から両親に連れられてこの教会に通ってきました。聖書は神様の御言葉であり、万物を創造された神様がおられることも、イエス様が救い主なのも、聖霊の働きがあることも、みな、僕にとって水や空気があるのと同じように自然なことでした。だから、教会で教えられたことを疑ったことはありません。先生はいつも、『イエス様は、弱い側、苦しむ側の味方です』って、おっしゃいますよね。だから先生を信頼して、まだ親にも言っていないことを打ち明けました。僕はまさに、苦しむ側なんです。イエス様は、そんな僕の味方ではないのでしょうか?」
しばらく沈黙が続いた後、私は彼に聞いた。
「ところで、相手の方の教会の反応はどうなのでしょう?」
性的マイノリティーついてどう考えるのか、教会により、牧師により、見解が分かれている。百八十度違うことを言う人もいる。
「詳しくは聞いていませんが、〇〇教会の〇〇先生は『LGBTQプラス 教会はどう対応すべきか』という本をお書きになっています。たぶん、ご理解いただけるのではないかと思います」
「ああ、その本でしたら、私も読みました。全面的に賛成というわけではありませんが、学ぶべき点の多い本でした。〇〇先生はリベラル派の論客みたいに言われていて、保守派の中には非難する人もいますが、私は、苦しむ人たちに寄り添おうとする先生だと思いました」
また、しばらく沈黙が続いた。私は、神学校時代から今日まで、性的マイノリティーのことをどう考えてきたのだろう。彼に正直に伝えるべきだ。私は彼を見ながら言った。
「実は、最近までほとんどの教会は、性的マイノリティーなど教会内に存在しないかのような扱いで、カミングアウトした人を罪びとのように見なしたり、それは病気だから治療を受けて治すべきだと忠告したりしてきたのです。今でも、当教会だけでなく、キリスト教界全体として、性的マイノリティーにどう対応すべきか、統一の見解がありません。私が神学校で学んでいたのは一九八〇年代でしたが、当時、性的マイノリティーに関する授業はまったくありませんでした。当時は世間一般、性的マイノリティーに無理解な人が多く、同性愛者を笑い者にするようなテレビ番組や漫画もありました。外国人差別や部落差別は当時も非難されていましたが、性的マイノリティーに対する差別を非難する声は多くはありませんでした。エイズという病気の広がりが問題になっていましたが、薬物中毒者や同性愛者の病気と見なされ、この病気さえ嘲笑されることがありました。マザー・テレサが「エイズ患者に愛の手を」と呼びかけたとき、これはうちの教会員ではありませんが、「エイズなんて不道徳の結果なんだから、患者は自業自得でしょ。マザー・テレサは不道徳の味方なの?」と言っていたクリスチャンがいました。これもうちの教派ではありませんが、牧師の中にさえ「エイズは人類の不道徳に対する神の裁きです」と言う人がいました。他教派であっても、そこまで言うクリスチャンがいることに、私は違和感を覚えました。しかし、違和感を覚えながらも、私は抗議の声をあげませんでしたし、性的マイノリティーの立場について深く考えることもしませんでした。私はこうした問題を避けたまま牧師になったのです。見て見ぬふりをすることで差別を是認し、差別に加担してきたと言われても仕方ありません。時代の状況とはいえ、私の怠りです。お詫びしなければなりません。これから、どう考え、どう対応すればよいのか、福音の光に照らし、祈りながら判断したいと思います。これまで私が言い続けてきた通り、イエス様は、常に、弱い側、苦しむ側の味方です。クリスチャンの中には、今も性的マイノリティーを罪びとのように見なして断罪する人たちもいますが、それは、取税人や遊女を罪びとだと断罪したパリサイ人や律法学者らと同様の発想だと思います。私は、そうした人たちには決してくみしません。イエス様の教えに従うならどうすべきなのか、よく考えたいのです。〇〇先生の『LGBTQプラス 教会はどう対応すべきか』も、もう一度じっくり読み直してみます。あなたがこれまで信仰を持って誠実に生きてきたのも、高校の教員として一生懸命仕事に励んでいるのも、教会のために頑張ってきたのも、私はよく知っています。あなたが持って生まれた性的な志向を非難などしませんし、教会から追放したりしませんから、安心してください。ただ、もう少し、考える時間がほしいのです」
(伊藤一滴)
性的マイノリティーの方々の苦しみについて、いろいろと話は聞いていますが、上記は創作です。実在の団体や人物とは一切関係ありません。
私、一滴は牧師ではありませんし、神学校で学んだ経験もありません。聞いた話からの想像です。
「教会の長老を務めるくらい優秀な青年」ということで長老教会としましたが、特定の教会のことではありません。実際の長老派系には幅があり、内部にはさまざまな見解があるようです。
〇〇先生の『LGBTQプラス 教会はどう対応すべきか』も、架空の本です。どなたか、こうした本を書いてくださればいいのに・・・。
2024.9.21付「キリスト新聞」の同性愛に関する記事に触発されて、思うことが湧きあがり、上記の話を一気に書きました。プロテスタント教会内の一部の心ある方々が発した問いへの、私なりのオマージュでもあります。
掲載後もいろいろ思いが湧いてきて、何度か推敲しました。
性的マイノリティーについての議論が深まることで人権意識が高まってくれればいいのですが、議論する人の中にはかなり差別的なことを言う人もおり、議論が当事者をより苦しめたりすることがないよう願っています。
グーグルをお使いの場合、次の検索でほぼ確実に私の書いたものが表示されます。
ジネント山里記 site:ic-blog.jp(検索)
(スポンサーの広告が出てくることがありますが、私の見解とは一切関係ありません。)
過去に書いたものは、こちらからも読めます。
http://yamazato.ic-blog.jp/home/archives.html
コメント