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番外編・非神話化は正しい聖書解釈なのか

非神話化は正しい聖書解釈なのか、という問いが出てくる。

ブルトマンは、正統とされる教義のある部分を批判し、別な部分は受け継いでいる。
それに対し、私は、以下の点で疑問を感じる。

ある部分を批判し別な部分は受け継ぐその判別は、恣意的・主観的にならないのだろうか。また、過去の自由主義神学がそうであったように、時代の風潮や研究者自身の価値観・理想が入り込むことはないのだろうか。
そして、そもそも、ブルトマンによる判別は正しいのだろうか。

なお、ブルトマンの見解を、正統的な信仰に反するとか、異端の神学であるとか非難するのは当たらない。
ある時代に「正統とされていた教義のある部分を批判し、別な部分は受け継ぐ」のは、ルターやカルヴァンがまさにそうだった。
その後プロテスタントは細分化されていったが、それはまさに「正統とされていた教義のある部分を批判し、別な部分は受け継ぐ」「そして、その時代の研究成果もふまえ新解釈を加える」諸教派が乱立したからに他ならない。
教義のある部分を批判するのは異端だと言うのなら、自分が属するグループ以外はすべて異端になってしまう。歴史的に見ても、キリスト教にはかなり幅がある。


ブルトマンの解釈が「正しい」かどうか、何とも言えない箇所もあるけれど、私は、逆に、正しい聖書解釈とは何かを問いたい。
教派の数だけどころか、牧師の数だけ、信者の数だけ「正しい聖書解釈」があるのではないか。

「正しい」かどうかの判別は、時代の状況もそうだが、主観がかなり混じる。
その解釈が「正しい」かどうか、どの立ち位置から見るのかによって違ってくる。それよりも、その解釈が「良い」かどうかが問題ではないのか。

ある聖書解釈が良い結果をもたらし、そう解釈する人自身や周りの人たちを良い方に導くなら、それは良い聖書解釈と言えるだろう。
逆に、ある聖書解釈が、自分や他者に悪い影響を与えるのなら、それは悪い聖書解釈だと言える。

「良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ」

非神話化が良い結果をもたらすのなら、それは良い解釈だと言えるし、悪い結果をもたらすなら悪い解釈だと言える。


聖書解釈の中には、聖書のその箇所の執筆者の意図とはかなり違うと思えるものもある。新約聖書の中にさえ、旧約の意図とはかなり違うと思える解釈が多数見られる。

問われるのは、正しいか、正しくないかではなくて、良い結果をもたらすか否かであろう。


私が子どもの時だった。「大草原の小さな家」というテレビ番組を見ていた。50年近く前の記憶だから、細部は不正確かもしれないが、おおよそ、こんな内容の話があった。

ローラのお父さんのチャールズは、狩りか何かで1人で出かけて怪我をした。歩けず、近くに人もおらず、助けを呼ぶこともできない。やがて傷が化膿して熱も出てきた。苦しい中で、チャールズは聖書の言葉を思い出した。
「もしあなたの体の一部があなたをつまずかせるなら、切り取って捨てなさい」
意を決し、チャールズはナイフを取り出し、化膿した傷口を切った。切ったことで膿が出て、傷は快方に向かった。
あとからチャールズを診たベーカー医師が言った。
「切ったのは適切な判断だった」

聖書の執筆者の意図とはかなり違うだろうが、これを、「間違った聖書解釈だ」と言えるだろうか。

考えようによっては、ときに神様は聖書のその箇所の執筆者の意図とはかなり違う聖書解釈で人を助けてくださるとも言えるだろう。


極端なな原理主義者やカルトは別として、一般の(原理主義でない)福音派の聖書解釈を、「間違っている」とは、私は言わない。
私とかなり考えが違っていても、たとえ聖書学的に成り立たないような解釈であっても、その解釈でその人自身や周りの人が良くなってゆくのなら、それでいいと思う。
そういう意味で、私は、福音派の聖書信仰を尊重したい。

また、リベラルな立場の非神話化がその人自身や周りの人に良い結果をもたらすのなら、私は、非神話化を尊重したい。

もう一度言う。
「良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。」

(伊藤一滴)


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