偏差値の正体は「もうかると思われるかどうかの指標」
茂木健一郎氏の以下の見解ををネットで読みました。
「複数の大学をいっしょくたにして『MARCH』だとか、『大東亜帝国』などということほど、くだらなくて失礼な話はないと思う」
「ぼくは自らは<<絶対に>>使わないし、使っている人に出会うと心の中で<<軽蔑>>している」
だそうです。
https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202302130001227.html
すごく納得しました。
2017年、私は「ジネント山里記」にこう書きました。
引用開始
この国では、もうかればそれでよい人たちが力を持っています。子どもたちが、スマホ漬け、ゲーム漬けになってもいいのです。売れればもうかりますから。放射性廃棄物の処分法など決まらなくても、原発は再稼働させてよいのです。もうかりますから。
そして親たち。私が子どもの頃から「勉強は自分のためより親の見栄」と言われ、皮肉られていました。見栄のため、あるいは自分が出来なかったことを代わりに子どもにさせようとして(それも見栄か)、子どもの人格をゆがめるような「教育」をする親がいました。今も、いるのでしょう。教育は、「脅育」「狂育」などど書かれ、皮肉られました。私でさえ、自分が受験生の頃は「偏差値の高い学校は優秀な学校」だと思ってましたよ。あれっ?、と思ったのは、キリスト教系大学の神学部の偏差値が意外に低いのを見たときです。人数は多くありませんが、日本の神学や聖書学の研究水準が高いことは私も知っていました。超難関とされている大学を卒業後に神学部に入る人もいますし、先に神学部で学んでから、海外の名門大学・大学院に行く人もいます。学問の水準が高いのに、なんで偏差値が高くないのか。人数が少ないと偏差値が正確に出ないというのもあるのでしょうが、それより何より、「その学校のその学部を出るともうかる」と思われると、偏差値が高くなるということに気づきました。たしかに、神学部を出て、牧師や司祭、宣教師などになっても、もうかりません。偏差値って、学問の水準ではなく、将来もうかると思われるかどうかの指標だと気づいたのでした。偏差値主義というか偏差値中毒というか、どっちが上だの下だのと大騒ぎしている人たちがいますが、偏差値とは、しょせんその程度のものです。将来もうかると思われる評価であり、もうかる保証ですらありません。仮にもうかったとしても、そもそも、もうかることとその人の幸福とは比例していません。
引用終了
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2017/08/post-b1ad.html より
引用開始
私も建築の仕事をしているので、建築学科を例にしますが・・・・、
世の中がバブルに向かっていく頃、建築学科は人気があって他の工学系と比べれば高い偏差値でした。その後バブルがはじけると、建築学科の偏差値は信じられないくらい下落しました。トップクラスだった建築学科が、下から数えた方がはやいみたいになりました。同じ建築学科で、同じ先生が教えているのに・・・・。もうかると思われると偏差値が高くなり、もうからないと見なされると偏差値が下落するのです。偏差値は、その学科の教員たちの学問の水準によるのではありません。世間が、もうかると見なしているかどうかの指標です。
引用終了
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2017/09/post-1dd6.html より
就職活動も、世間がもうかると見なす会社や団体に人が殺到して倍率が上がります。
学校だと、「その学校のその学部を出ると将来もうかる」と思われると入学希望者が殺到し、高い点を取らないと合格できなくなって偏差値が上がるのです。思われてはいますが、絶対もうかる保証はありませんし、幸せになる保証もありません。それだけです。
創立の理念もそれぞれで、沿革もそれぞれ、得意分野も、教職員も、出身者の活躍もそれぞれの各学校を、ただ偏差値だけで測ってひとくくりにし、語呂合わせみたいに呼ぶって、それ、どうかしてますよ。おかしいですよ。なんでそんなおかしなことが、当然のようにまかり通るのでしょう。
茂木健一郎氏の上記の見解は、まったくその通りだと思います。
(伊藤一滴)
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