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「心の貧しい人々は、幸い」?

今現在の日本語訳の聖書は、聖書協会共同訳が標準になりつつあるようですが、実は、まだこの訳を買っていません。
初版は2018年ですから、いくら何でも誤植の訂正は終わったろうと思いますが、今も買う気にならないのです。
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2021/08/post-fd2e.html

聖書協会共同訳の欄外にある、引照、注、直訳、別訳など、有益だと思います。逆に言うと、役に立ちそうなのは欄外だけ、と言えます。まあ、欄外を使う目的で買ってもいいんですけれど。それなら古本で十分でしょう。
でも、なんで、「引照・注」なしがスタンダードなのでしょう。新改訳は「引照・注」付きがスタンダードなのに。もっとも新改訳も、2017年版を自分用に1冊買って、少し読んで絶句し、その後は読んでいません。人にも勧めません。書いてある通りに訳すのではなく、翻訳者が信じる教義に合うように強引に訳文を持って行く翻訳思想はどうなんでしょうね。
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2019/12/2017-ee8c.html


以前も書いたのですが、聖書協会共同訳はルカ福音書の召命の箇所まで「人間を捕る漁師」と訳しています。ルカはこの箇所に「漁師」という語を使っていないのに。(ルカ5:10)
ここは、伝えられたイエスの言葉が、伝えられる中でどのように変化したのかを示す重要な箇所の一つです。キリスト教保守派の、たとえばシカゴ声明の、「聖書は原典において無誤である」という主張が誤りである証拠にもなります。原典において原著者によって書き換えられていたのですから。

口語訳も新共同訳も原文にない「漁師」という語を「訳」してますが、誤訳でしょうか、意訳でしょうか。
誤訳なら重大な瑕疵だし、意訳なら、訳者は本当に新約学の専門家なの?って言いたくなります。ここは、他の福音書に合わせて意訳してよいような箇所ではありません。福音派が訳した新改訳だってこの箇所は原文の通りに訳しているのに。
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2021/06/post-7724.html


マタイ福音書の冒頭のことも、以前書きました。(マタイ1:1)
「マタイ福音書」(「マタイ伝」、「マタイによる」)というのは、あとからつけられた題名で、
「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストのゲネシスの書」
が本来の題名だったと考えられるのです。
最初に系図があるので、それにつられて系図と訳してしまうのでしょうが、「ゲネシスの書」(ビブロス ゲネセオース)を「系図」と訳してしまうと、なんで系図が書物(ビブロス)なのか、わけがわからなくなります。系図が書かれたマタイ1章は「書物」と呼ぶような分量ではないのに。

「ゲネシス」は、「発生、生成」といった意味ですが、「生まれ」「人生」「生来の命」のような意味でも使われますから、おそらく、マタイ福音書は、
「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの誕生と生涯の書」(私訳)
というような題名だったのでしょう。
書き写される中で、題名が最初の節に入り込んでしまったと考えれば説明がつきます。

1611年に出た英国欽定訳だってここは正確に訳しているのに、いまだに「系図」と訳したのでは、今日までの聖書の研究は一体何だったのかと思えてしまいます。
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2021/06/post-0cad.html


日本の新約学の水準はかなり高いと思いますから、訳者たちは正確に訳せばこうなるとわかっているでしょうに。「日本語の聖書翻訳の伝統をふまえて」という圧力に屈したのでしょうか。「聖書の翻訳には翻訳の伝統がある」と言う人たちがいますが、誤訳や不適切な訳の踏襲が翻訳の伝統なのでしょうか。


マタイ福音書の「山上の垂訓」の冒頭も、それこそ伝統的に、不適切に訳されてきた箇所です。(マタイ5:3)
これまでの主な日本語訳から引用します。

(明治元訳)心の貧しき者は福なり天國は即ち其人の有なれば也

(文語訳 大正改訳)幸福なるかな、心の貧しき者。天國はその人のものなり。

(口語訳)こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。

(新改訳)心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。

(共同訳)ただ神により頼む人々は、幸いだ。天の国はその人たちのものだから。

(新共同訳)心の貧しい人々は、幸いである、
 天の国はその人たちのものである。

(聖書協会共同訳)心の貧しい人々は、幸いである
 天の国はその人たちのものである。

(「聖書協会共同訳」は持ってないので、立ち読みしたのを記憶で書きました。もし記憶違いがあったらごめんなさい。)


「共同訳」はナイダ理論(動的等価理論)の悪影響がひどかった時代の「訳」だから、これは論外です。ここまで文章を変えてしまったのを訳と呼んでいいのかさえ疑問です。
他は、大正改訳以外はどれも似たような訳になっています。つまり、先行する訳を見ながら訳したのです。

名訳の誉れ高い大正改訳は、さすが、見事ですね。それでも、「心の貧しき者」です。これを「霊に於て貧しき者」とでもすれば、より良かったと思うのですが・・・。

この箇所はギリシャ語を直訳すればこうなります。

「幸い、霊において貧しい人々は。なぜなら天国はその人たちのもの。」(私訳)

最初に、いきなり「幸い」ときます。大正改訳に近いです。
しかも、「幸い」と「霊において貧しい人々」をつなぐ動詞がありません。
動詞がないから時制がわかりません。
主な英訳は、欽定訳の影響なのか、どれも直訳調で、be動詞の現在形を補って受動的に訳したものが多いです。でも、本当に現在形に訳していいのかも、断定できません。

「幸いだ、霊において貧しい人々は」
「幸いだった、霊において貧しい人々は」
「幸いになる、霊において貧しい人々は」

時制がわからないので、解釈のしようで何とでも訳せます。

イエス自身は、実際、どう言ったのでしょう。
想像ですけれど、弱い立場の人に優しかったイエスでしょうから、
「幸いになるべきです! 貧しい人々こそ!」
みたいな感じだったのでしょうか。
貧しい人々が貧困から抜け出せない社会のあり方や権力者の支配に対し、怒りを込めてそう言ったのかもしれません。

ちなみに、戦前、聖書翻訳の主流とは言えない永井直治訳『新契約聖書』は「福なる者は靈に於て貧しき者〔なり〕。」と、ちゃんと訳していました。〔なり〕と括弧でくくり、時制がわからないことも踏まえています。永井先生は一牧師であり、大学の教員のような研究職の人ではなかったのに。教会で牧会の仕事をしながら独力で訳したんですよ。戦前の一牧師が個人でこれほどの訳を出しているのに、戦後の日本の聖書翻訳は一体何だって、言いたくもなるんです。

かなり高い確率で、「霊において」(トー プネウマティ)はマタイの書き加えです。
ルカは「貧しい人々」と、おそらく伝えられた通りに記し、マタイは「霊において」と書き加え、現実の貧困問題ではなく精神的な問題に変えたのでしょう。この箇所も、「聖書は原典において無誤」という主張が誤りである証拠になります。聖書は原典において、原著者の手で改変されたのです。
(「イエス様は何度もお話しになったので『貧しい人々』も『霊において貧しい人々』もどちらも別の時のイエス様の御言葉です。改変などありません」と言う人もいるでしょう。では、イエス様は何回生まれ、何回十字架にかかったのですか? 何回復活したのですか? それぞれ福音書の記述が食い違っています。)

ちなみに「天国はその人たちのも」という「天国」は複数形になっています。古代人は幾層にもなった天を思い浮かべていたのでしょう。「聖書は無誤無謬」なら、天国はいくつもあることになります。天国って、一体いくつあるんでしょう?


マタイ福音書の著者を便宜上マタイと書きますが、おそらく、十二使徒のマタイとは関係のない人物で、イエスに会ったことはなかったのでしょう。
地上で生きたイエスを直接は知らなかったであろうマタイは、一体どんな人たちを思い浮かべて「霊において貧しい人々」と書いたのでしょうか。
それこそ、心の貧しい人々かもしれないし、ただ神により頼む人々かもしれないし、自分の精神的な貧しさを自覚する人々、謙遜な人々だったのかもしれません。他の可能性だってあります。
マタイの本当の意図は、もう、わかりません。いろいろな意味に取れるのです。
一つの可能性に過ぎない一解釈は、欄外に記すならともかく、本文の訳文にすべきではありません。訳として出版されれば、意味が限定された文が固定されてしまいます。訳者は、そうやって、聖書の御言葉の意味を狭めているのです。

読みようによっていろいろな意味に取れるのですから、訳文も、いろいろな意味に取れるように、原文の通りに訳すべきです。

「心の貧しい人々」というのはさまざまな解釈の中の一つに過ぎないのに、この解釈が日本の聖書翻訳の「伝統」になっています。先人がそう訳してしまうと、それが人口に膾炙し、文学作品などにも引用されて、不適切な訳だとわかっていても変えられなくなってしまうようです。
もう、そんな「伝統」はやめにしたらどうでしょう。


「だったら、一滴さん。あんたが訳したら」って言われそうですね。
それは無理です。
能力的に、そして、時間的に。

マタイ1:1を「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの誕生と生涯の書」(私訳)と訳すのに半年くらいかかりました。
「ゲネシスの書」(ビブロス ゲネセオース)を「系図」と訳すのはどう考えてもおかしいと思い、これまでの主な日本語訳と代表的な英訳を見ました。それから、ギリシャ語新約聖書中、変化形も含めて「ゲネシス」が使われている箇所を全部調べました。コンコルダンスという便利なものがあるので、そういうことができます。

新約聖書で「ゲネシス」は、「生まれ」「人生」「生来の命」のような意味で使われています。

これは、イエス・キリストの「生まれ」か「人生」か。
どちらかに絞れないと思うので、両方の意味を込めて、
「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの誕生と生涯の書」
と訳すのがよいのではないかと思ったのです。「誕生」も生涯に含めて単に「生涯の書」としてもいいのでしょうけれど、イエスというお方がこの地上に生じてくださったわけだから、誕生という言葉も使いたかったのです。「生まれ」と「人生」の両方の意味を込めて「イエス・キリストの生(せい)の書」といった訳も可能かと思います。イエスは、地上に生まれ、生きて、キリストとして活動をした、というのがマタイの主張なのでしょうから。

また、別の可能性として、全然ちがう訳になりますが、
「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの創世記」
とも訳せるのです。
マタイは、七十人訳聖書の「創世記」を意識して福音書のタイトルにしたのかもしれないからです。これは別訳です。

それと、言うまでもないことですが、「~の子」とあるのを「~の子孫」などと訳す必要はありません。初心者に誤解を与えないようになどと、余計な配慮で意訳すべきではありません。訳文は直訳し、欄外に「子孫という意味」と書いておけばいいだけのことです。


マタイ5:3の「心の貧しい人々」というのも、ずっと私の疑問でした。
これを、
「幸い、霊において貧しい人々は。なぜなら天国はその人たちのもの。」(私訳)
と言えるようになるまで、何年もかかっています。

ですから、私の能力の低さの問題もありますが、聖書のあらゆる可能性を考えれば、私のスピードでは、せいぜい、数か所、例をあげて指摘するくらいで精一杯なのです。とても、新約聖書の全訳なんて無理だし、福音書の全訳だって無理なんです。能力的に、そして、時間的に。


世には、置き換えてよいものと、置き換えてはいけないものがあります。
聖書は、キリスト教の正典であると共に、歴史的な、人類の宝でもあります。この宝を、万人に向けて、未来に向けて、正確に伝えるべきです。
翻訳は他の言語への置き換えであり、置き換えなければ翻訳できないのですが、それは、可能な限り直訳に近い形にすべきでしょう。
かつての永井直治先生や今の田川建三先生はそうなさいました。個人にできることが、聖書協会のような団体だとできなくなってしまうんですね。

聖書翻訳の(悪しき)伝統に縛られず、原語からそのまま訳すべきです。特に、1970年代~80年代の聖書翻訳をひどく悪くしてしまったナイダ理論(動的等価理論)からは完全に脱却すべきです。

ご参考まで。

(伊藤一滴)

聖書を読み続けて50年

私が聖書に出会ったのは1973年、小学校の3年生でした。ちょうど家の新築工事をやっていた時で、その年に聖書をもらって読み始めたんで、間違いなくその年です。
それから50年、いろいろな訳の聖書を読み続けました。

50年も読み続ければ、その間に学んだことや気づいたこともいろいろあります。
各派の聖書関係者(多くはクリスチャン)との出会いや対話もありました。
学生時代には、「正しい聖書信仰に立つ」という自称「福音派」や自称「純粋なキリスト教」の人たちから、しつこくからまれて嫌な目にあったこともありました。

全員ではありませんが、聖書信仰を名乗る人たちの中に、キリスト教というより聖書教のような人たちがいました。
聖書に書いてあるかどうかが何より大事で、聖書の文字づらから信仰や行動をマニュアル化しようとする人たちでした。それは、まさに、現代の律法主義なのに。

聖書の解釈はさまざまで、聖書を引用して逆のことが言えることも多数あります。「純粋に聖書を信じる」というのは、つまり、自分が属する教派の見解や牧師の見解を無批判に信じ込む、ということなのです。聖書は絶対と言っても、聖書を絶対視しているというより、教派や牧師の見解を絶対だと思い込んでいるだけなんです。

もし、無誤の聖書を正しく信じることが可能なら、どの教派も、どの牧師も、同じことを言うはずなのに、そうじゃないですね。福音派とリベラルの対立どころか、ある福音派と別の福音派が対立しています。こっちの福音派が正しくて、あっちの福音派が間違いなのか。逆なのか。いったい、誰が、何の権限で、正誤を決められるのでしょう。
「聖霊の導きによって正しいとわかります」って言う人もいますが、じゃあ何で解釈が違い、対立が起きるんでしょうか。聖霊はあっちの教会とこっちの教会を別々に導くんでしょうか。
「神様は絶対に正しい」と仮定しても、「神様を信じる人間も絶対に正しい」とはなりません。誰も絶対的な正しさに到達できないのですから、聖書のすべてを絶対的に正しく読むなんてできないんです。

「無誤の聖書を正しく信じています」っていうのは、つまり、マインドコントロールなんです。
マインドコントロールの手口を使うのが原理主義やカルトなんです。指摘しても、認めず、自分で自分をマインドコントロールするようなことまでして、ますますハマってしまう人たちがいます。

信じる喜びなんて、ないんです。カルト思考に心を占領され、支配されていますから。
神の愛に満たされているんじゃなくて、愛とはまるで異質なものに心が占領されているんです。
顔つきも変わってきます。特に目つきが、異様に光るんです。希望に満ちて目が輝いているのではありません。何かに憑りつかれて自分を失ったような、焦点が定まらないような、キラキラの異様な目つきです。

そういう目の人たちを、見ましたよ。統一協会、「福音派」の一部、エホバの証人、左翼セクトの活動家・・・。
そうです、あの目です。話をしても、まるで対話にならない人たちの、あの目。
マインドコントロール下にある人の顔つきって、似てきます。特に、あのキラキラの目つきが。


イエスは、神を父と呼びました。人間の父親だって、ふつう、我が子を脅したりしないのに、罪、悪魔、終末、裁き、地獄などの恐怖で人を脅す神様は、イエスが教えた神様でしょうか? 信者を脅す教会の牧師は、本当に御言葉を取り次いでいるのでしょうか? そもそもそういう教会は、教えを受け継ぐキリスト教の教会なんでしょうか?

神様って、人間の自由意志を奪うんですか?
人を教会や牧師が操るロボットのようにしてしまうんですか?
人間がロボットのようなものなら、神様は何のために人間を創造したのでしょう。


人生の中で、神様が、あれかこれかの選択を迫っていると思えることもあるでしょう。私だって人生は決断の連続だと思います。でも、それ、その人に委ねられた判断なんです。最初からマニュアルがあるんじゃないんです。
イエスの教えは、規則や禁止事項で人をがんじがらめにするような教えじゃないんです。


1983年でした。予備校生だった19歳の私は、仙台市内の福音派の教会で教えを受けていました。福音派を選んでそこに行ったのではなく、たまたま行ったら福音派の教会だったのです。
危険な「教会」もありますから、適当に行くのはお勧めしませんが、当時はインターネットなんてなかったし、キリスト教に詳しい知り合いもいませんでした。
当時だってラジオ放送FEBCはあり、FEBCに手紙を書いて仙台市内の教会をいくつか紹介してもらっていたのですが、なぜか、紹介された教会ではなくて、たまたま見かけた教会に引き寄せられるように入って行ったのです。
もし、本当に神様がおられ、本当に霊的な働きがあるのなら、私は導かれたのかもしれません。
親ガチャじゃないけれど、教会ガチャみたいに、私はガチャを当てました。

私は、その教会の勉強会に通うようになりました。
教会の牧師先生は、よく、こうおっしゃいました。
「伊藤さん、これについてあなたはどう思いますか?」「伊藤さん、生きてゆく中で何か判断に迷うことがあれば、最終的には福音の光に照らして自分で判断するのが大事です」「世の中には簡単に答えを出せないことがたくさんあるのだから、祈りながら、どうすべきか道を求めるのですよ」「こういう状況の時はこうみたいな、そんな安直なマニュアルはありません。聖書はそういう虎の巻ではないのです。今、聖書の時代になかったものが世の中にはたくさんあります。決断しないといけないときは、福音の光に照らして自分で判断することが大事なのです」
牧師先生は、最終的には「福音の光に照らして」自分で判断すべきなのだと、私に教えてくださいました。あの牧師先生は、今も、私の心の中で先生です。私はあの先生から学んだ者であることを今も誇りに思っています。
あの教会には、理性的で穏健で善良な人がたくさんいました。
〇〇派だからと、教派名だけでレッテル貼りをすべきではありません。どういう牧師・信者がそこにいるのかなんです。

本当の宗教は、本質を押さえた上で、あとはその人の判断を尊重するんです。自由意志を尊重するんです。何でもかんでも先に答えがあって、その答えになるよう誘導したりしません。

私が、
「遠藤周作氏の著書についてどう思いますか。たとえば『イエスの生涯』とか『キリストの誕生』とか」
ってお聞きしたときも、牧師先生は、
「遠藤周作先生と私は考えに違いがありますが、遠藤先生は誠実に神様を信じて、ご自分のやり方で証しをしておられるのでしょう」
とおっしゃって、否定的なことは言いませんでした。
信者さんの中に、「教派を超えた集まりに行ってカトリックの人たちと一緒にお祈りしてきました」という人がいましたが、
「今はそういう時代なのですね。多くの方と良い交わりをなさってください」
とおっしゃり、他派との交流についても、否定的なことは言いませんでした。
カトリック、リベラル派、無教会、他宗教、他の誰のことも悪く言わない人でした。

本質を押さえた本当の宗教に、言ってはいけないタブーなんてないんです。この教会で遠藤周作氏の話はタブーだとか、他教派の話はタブーだとか、カトリックの人と一緒にお祈りしたことはタブーだとか、性に関する話はタブーだとか、そんなタブーはないんです。

その頃私は、山形孝夫著『治癒神イエスの誕生』(のちに『聖書の奇跡物語』と改題)とか、同著『レバノンの白い山』とか、ブルトマン著「共観福音書の研究」(山形孝夫訳『聖書の伝承と様式』所収)とか、読んでいたので、リベラルと福音派の間にいたような感じです。
くもりガラスの向こうに、ぼんやりと見えるようなイエスを感じ、イエスに従いたいという思いで、福音派の教会で学びながら、心のどこかはややリベラル寄りだったのでしょう。

もし、私が仙台市内の大学に進み、そのままその教会に通っていたならば、私はそこで福音派のクリスチャンになっていたのかもしれません。「リベラルな見解もあるけれどそれはそれ、私は福音派を選ぶ」、というふうに。
でも、運命はそうさせませんでした。あるいは、神様がそうさせなかったのか。

愛知県内の大学に進んだ私は、はっきりとリベラル化し、福音派とは距離を置くようになりました。(交際を絶ったのではありません。新改訳聖書やいのちのことば社の本だって使っています。福音派の一員にはならないという意味で距離を置いたのです。)
親切にしてくださった仙台の牧師先生や信者さん方には申し訳ないのですが、自分の思いを偽るわけにはいきませんでした。
私の急速なリベラル化は、かつての自由主義神学やブルトマンやその後の方々の見解の影響もありますが、大学の学内で、「正しい聖書信仰に立つ」という自称「福音派」や自称「純粋なキリスト教」の人たちから取り囲まれて詰問され、ひじょうに嫌な目にあった影響も、かなりあります。福音派の信仰は、道を誤るとこんな風になってしまうのかと思い、反論のためもあってさらに聖書を学びました。その結果、私は急速にリベラル化したのです。

今も、田川建三先生の著書を読みながら、「田川先生はずいぶん保守的なことをおっしゃるなあ」と思うことがあります。田川建三先生の見解が保守的に思えるくらい、私の聖書の読み方は左派になってます。


原理主義やカルトも「福音派」と自称しますが、彼らの宗教は、最初から答えがあって、個人の判断を許しません。そして、何でもそれが善なのか悪なのか、価値があるのか無価値なのか、救いなのか滅びなのかみたいに、2つに分けようとする二元論、二分法なのです。あれかこれかと2つに分けて、自分たちは正しい側にいると思い込むんです。
この世界は白か黒かの碁石が置かれた碁盤じゃありません。碁石なら、白でなければ黒、黒でなければ白ですが、現実の世界には判別が難しいものや中間的なものがたくさんあるんです。どちらか2つに1つというのはわかりやすいんですけれど、そのわかりやすさで、2つに分けられないものを無理に分けてしまってはいけないんです。

そうした二元論の思考になってしまうと、何でも正か誤かに分けようとして、自分は正の側、救いの側だと思って、この正しい教えを伝道しないといけないという使命感に燃えるんです。でも、それって、単に、特定教派の特定牧師から植え付けられたイデオロギーですから、そこに客観性も普遍性もないんです。
真面目な人がからめとられてしまって、指摘しても、気づきません。自分の信仰を否定されたと思うのか、火がついたみたいになって怒るだけです。私は、キリスト教の信仰を否定したことなどないのに。
マインドコントロールされ、それが進んでしまうと、説得は難しいようです。
学生時代にそういう自称「福音派」からさんざん詰問されたんで、やがて彼らの思考回路や論法や行動がわかるようになりました。それはイエスの教えとはまるで違います。


「救い」か「滅び」か2つに1つみたいな、二分法の思考から離れると、楽なのに。
この教会から離れたら、滅びる、地獄に行く、永遠に焼かれる、みたいに考えていたら、恐怖による縛りで離れられなくなって、心の平安なんてないです。

心に平安のない信仰って、イエスが教えた信仰ですか? あるべき信仰ですか?


キリスト教の否定ではありません。カルト思考では駄目なんです。自称「福音派」の原理主義やカルトのイデオロギーに支配される生き方では、自分の人生を生きることができなくなるのです。

福音派の中にも、その人の判断や自由意志を尊重してくれる教会があります。仙台で私が通った教会がそうでした。
プロテスタント主流派にも、無教会にも、カトリックにも、素敵な人がたくさんいます。もちろん他宗教や無宗教の人にも。

ある種のイデオロギーの縛りから出ると、外には、イエスの教えに適う素晴らしいものが沢山あるんです。
縛りの中にいる人たちに、外の世界の素晴らしさに気づいてほしいと思うのです。


「で、一滴さんはクリスチャンなんですか?」って、また聞かれそうですが、それは「キリスト教」をどう定義するかです。

もし「私はクリスチャンです」と言えば、ある人たちから「クリスチャンなのにどうして聖書を批判するのか」って叱られるだろうし、「私はクリスチャンではありません」と言えば、「非クリスチャンなのにどうして聖書についてあれこれ言うのか」って叱られるでしょう。どっちみち、ある種の人からは叱られるんです。
ある種の人たちは、どんなに筋を通して話をしても通じません。信仰どうこうの話は相手を見てからにします。彼らは「自由主義神学の影響を受けた間違ったキリスト教は、非キリスト教より悪い」と思っているようですから。(でも、まあ、中には気づいて目を覚ます人もいるかもしれませんから、諦めてはいませんが。)

以前、無教会の人たちにお会いする機会があって、このブログに書いているような話をしたら、当然のように、私はクリスチャンとして扱われました。全員ではないかもしれませんが、寛容な無教会の人から見ると、私はクリスチャンということになるようです。

(伊藤一滴)

福音書から察せられるイエスのメッセージと、未来に向かう信仰について

福音書から察せられるイエスのメッセージと、未来に向かう信仰について考えてみる。

前から繰り返して言っているとおり、福音書はイエスの言葉や行動の事実をそのまま伝えている文書ではない。イエス自身が書いたものではないし、イエスのそばにいた人がその場ですぐに書いたものでもない。
福音書は、イエスの伝記や発言集というより、キリストであるイエス(つまり、人々がキリストであると信じたイエス)について語り継がれた伝承が後に編集された書だ。
イエスの没後何十年も経って書かれた福音書が、どこまでイエスの言葉や行動の事実を伝えているのか、実はよくわからない。

では、もうイエスについての歴史的事実は何もわからないのかと言うと、そうでもない。我々は、福音書に、イエスが人々に伝えようとしたメッセージの反映を感じる(※)。それは、伝承と編集の過程を経たものだから、それこそ「ぼんやりと鏡に映ったようなもの」だ。それも、ガラスの鮮明な鏡ではなく、古代の金属板の鏡にぼんやりと見えるような感じだ。

※ たとえば 八木誠一『イエス』、田川建三『イエスという男』、荒井献『イエスとその時代』など。


40年近く前の話だが、予備校生だった19歳の私は、くもりガラスの向こうにイエスを感じるような、そんな感覚で、イエスを求めた。
そこで私が感じたのは、おおらかなイエス、ずばり物を言うイエス、反権力のイエス、庶民の味方のイエス(彼自身が庶民の一人)・・・だった。

私の勝手な想像ではない。聖書を切り刻むように調べる聖書学者でも否定できないイエスを、私は求めた。
若かった私は、そんなイエスに従って生きていきたいと思った。その思いは、今も変わらない。
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2017/04/post-9c77.html


あれから私も、私なりに学んだ。
今の私の目からは、イエスはこう見える。

1.「神の国は近づいたのです。悔い改めなさい」と、終末はすぐそこに迫っている、心の方向を転換すべきだと主張した人。

2.「神は天の父です。心から神を愛し、人を愛しなさい」と主張した人。

3.律法主義の支配から人々を解放しようとした人。律法違反と言われるのを恐れずに、穢れた病とされていた人たちをはじめ、種々の病人や障害者、徴税人や娼婦にも接した人。

4.ファリサイ派や律法学者らの前で「権威ある者」として振る舞った人。弱い立場の人には優しかったが、権威や権力の側には断固たる態度を取った人。

これらの結果、イエスは十字架につけられて処刑された。

イエスは1世紀の時代のパレスチナという場所で生きて、行動し、語った。彼はおそらく古代ユダヤ教の中の黙示的な終末論者の一人で、エッセネ派の流れの宗教指導者の一人だったのだろう。おそらく洗礼者ヨハネの門下生または後輩の一人で、のちに独立したのだろう。死海文書で知られるクムラン宗団との関連はよくわからない。荒野で共同生活をしていたクムラン宗団と違い、イエスは弟子たちと共に積極的に町に出かけて行って、教えを宣べながら呪術的な悪霊祓いや呪術的な医療活動をしていた。イエスの支持者は多く、マグダラのマリアをはじめ女性の支持者も相当数いたようだ。それは、イエスが女性を低く見たりせず、人としてきちんと接していたからだろう。

イエスは「こんな不義の世はまもなく終わり、神の国が到来する」と本気で思い、人にもそう言っていたようだ。自分の話を聞いている人がまだ生きているうちに終わりの日が来ると考えていたようだ。マルコ福音書には「ここに立っている人々の中には、神の国が力をもって到来しているのを見るまでは、決して死を味わわない者がいます」というイエスの発言が記されている(マルコ9:1)。
「神の国の到来というのはイエス様の変容のことです」とか「三日目に復活するイエス様を見るという意味です」とか、一部の保守派や原理主義者がつじつま合わせをしているが、そんな話に付き合っても仕方がない。まもなく起こることについて、「(もうすぐそれが起きますが、その時まで)決して死を味わわない者がいます」と言うのも変だ。終末なんてまだ先のことだと思っているのかもしれないが、そうではなく、ここに立って私の話を聞いている人がまだ生きているうちにこの世は終わり、神の国が到来するのです、という意味以外に取りようがない。パウロの携挙論(?)を意識したマルコの創作の可能性もあるが、私は、マルコ9:1は本当にイエスの口から出た言葉だろうと思う。イエスは黙示的な終末論者で、本気で、すぐに終わりの日が来ると思っていたと考えた方が自然だからだ。その時に来るという「人の子」は、黙示的、神話的なイメージであり、イエス自身のことではない。イエスは終末論者の一人として終わりの時の黙示的な人の子の到来を思い浮かべていたのだろう。

イエスの予想は外れた。終わりの日がいつなのかイエスにも分からなかった。現代のコロナ禍は終末の徴だとか、ロシア軍の侵略は終末の徴だとか、いろいろ語って、間もなく世の終わりが来る、神の審きの日が来ると言って人を脅す人たちがいるけれど、イエスでさえ分からなかった終わりの日が分かるというのも凄い話だ。その人たちはイエスよりも上なのか。イエスより上とは、凄いことだ。

ちなみに、アフリカでの医療で知られるA.シュヴァイツァーは、かなり早くから、イエスは終末論者であったと指摘していた。シュヴァイツァーは植民地主義の手先と言われることもあるけれど、神学・聖書学の分野において卓越した人だった。


イエス自身は、現代風に「教会派なのか社会派なのか」と言えば、社会派だった。
イエスは革命家ではないけれど、自分から町に出向いて、教えを宣べ、悪霊祓いや医療活動をし、積極的に社会に関わる人だった。そして、恐れずに権威や権力を批判する人だった。

イエス自身は、現代で言う「福音派に近いのかリベラルに近いのか」と言えば、リベラルに近かった。
「~と言われているのをあなた方は聞いています。しかし私は言います」
この言葉どおりに語ったのかどうかはわからないけれど、マタイは、きわめて革新的なイエスの精神を書き残している。


神への愛や人類愛、これは今でも多くの人の共感を得るのではないかと思う。たとえ神など信じない人でも、人は互いに愛し合うのが理想だと言われたら、理想はそうだと思うだろう。私は、イエスの教えは愛の教えだと思う。神の御前に人はみな平等だという平等思想だと思う。

イエスは、律法が人を支配するユダヤ教社会で育ち、律法主義の束縛に気づき、律法を否定したり破壊したりせずに、うまく乗り越えようとした。彼は律法を超えることで、律法主義からの解放を説いた。

今も「聖書にこう書いてあるからこうです」と、人を聖書の言葉で縛ろうとする人たちがいるが、文字や文字の解釈で人を縛るのはイエスの教えとは正反対の律法主義の一種だ。聖書から導いた言葉でクリスチャンの生活マニュアルのようなものを作って信者を従わせようとする人たちもいるが、イエスが聞いたら仰天するだろう。怒り出すかもしれない。

イエスなら、こう言いそうだ。
「今の状況下でどうすることが天の父の御心にかなうのか、自分で考え、判断し、行動しなさい。上からこう言われたからとか、マニュアルにこう書いてあるからとか、無批判に従うのではなく、自分の頭で考えなさい」


イエスはなぜ権威ある者のように語ったのだろう?

宗教的な権威が人を支配していた時代、律法主義の束縛からの解放のためには、イエスは自分を、律法で人を縛る人たちより上の権威者とするしかなかったのだろう。それは、中世末期のローマ教会の権威に立ち向かうため、教会の上に聖書の権威を置いた宗教改革者らを思わせる。
(ただし、宗教改革者らも時代の子であった。聖書を66巻としたのも、信仰の論拠を聖書のみとしたのも、時代の状況であり、イエスがそう教えたわけではない。)

イエスも時代の子であった。世の終わりが近いと本気で思っていたイエスは、もう自分の命を惜しむことなく、死を覚悟してエルサレムに向かったのかもしれない。
神の国を宣べ伝え、神と人を心から愛するように教え、律法主義の束縛からの解放を告げて、権威ある者のように語ったイエス。彼は捕えられ、十字架で殺された。
新約聖書にあるように十二使徒のユダが裏切ったのか。それとも「ユダの福音書」が記すように、ユダこそがイエスから最も信頼された弟子だったのか、史実はもうわからない。
パウロは、三日目に復活したイエスは「ケファに現れ、その後十二人に現れた」と言う(1コリ15:5)。十一人ではなく、十二人と言っている。素直に読めば、イスカリオテのユダも含まれることになる。

イエスは殺された。
たが、そこで終わらなかった。
彼は復活したと信じられた。
復活したとされたイエスはキリストだとされ、神格化された。
そして、「イエスの十字架の死は私たちを罪から贖うためのものだった」と信じられるようになった。これが「キリストの誕生」である。
遠藤周作の著書に『キリストの誕生』というのがあるが、ベツレヘムで生まれたとか馬小屋で生まれたとかの話ではなく、十字架で無力に死んだイエスはどのように神格化されて救い主キリストだと信じられるようになったのかを作家の目から描いた作品だ。イエスの誕生ではなく「キリストの誕生」なのだ。この本が歴史的にどこまで正確なのかはともかく、なかなか興味深い作品だ。最初に読んだのは高校生のときだった。こんな本を書く人はクリスチャンではないのだろうと思ったが、遠藤周作氏は誠実なカトリック信者だと知って驚いた。大学生になってからいろいろな教派の教会に行ってみたが、教会の本棚にもよく置いてあった(福音派を除く)。
遠藤周作氏がクリスチャンなら、キリスト教の信仰って何だろうと思った。

キリスト教の信仰とは何かと問われても、とても一言で答えられるようなことではないから、私も簡単には答えられない。
ただ言えるのは、「単なる思い込みは信仰とは言わない」ということだ。
もちろん、マインドコントロールされた状態を信仰があるとは言わない。
それこそ「聖書は無誤無謬」という鋼鉄のヘルメットどころか鋼鉄の甲冑を身にまとい、常識的な話も、筋の通った指摘も、みな跳ね返して特定宗団の教えに籠る原理主義者やカルトがいるが、それは信仰というより思い込みで、現実からの逃避だ。場合によっては陰謀論だ。もしかすると、そういう信じ方をする人たちは、何か、心を病んでいるのかもしれない。

1970年代~80年代、マルクス主義を科学とし、絶対の真理だと信じる人たちがいた。彼らは、絶対の真理を信じていると思い込んでいたから、どんな反論も一切通じなかった。それは、「聖書は無誤無謬」と信じる人たちと似ていた。絶対とは言えないものを絶対と信じ、客観性を受け入れない。それは、対象の偶像化ではないか。
マルクス主義者らは物神崇拝という言葉を使うが、そう言う自分たちが、マルクス、エンゲルス、レーニンらの著書を物神崇拝していたのだ。
マルクス主義者に見られる教条主義も、キリスト教の原理主義も、対象は違っても信じ方がよく似ている。どっちもカルト思考であり、偶像崇拝の一種だ。


カルト思考は論外だが、健全な信仰について考えてみる。
人は信仰とは何かと問うだろうが、健全な信仰は「人とは何か」を問うだろう。「信仰があると言うのなら、あなたは何者か? 何を考え、何を願い、何をしているのか?」と問うだろう。


私は、困難な状況の中で自分から大変な役割を引き受けるクリスチャンたちを見てきた。自分の損得など考えないで、みんなのために黙々と働く人たちだった。その姿を見ながら、彼らを動かす神というものが、本当におられるのではないかと思った。あの人たちが「イエス様を信じます」と言うのなら、私は、それを否定することなどできないと思った。

つまり、私は、信じる人たちの働きを通して神を感じ、キリストを感じた。
それは特定の教派ではなく、プロテスタント主流派、福音派、カトリック、無教会と、立場はさまざまだった。教派に関わらず、みな本当のクリスチャンだと思った。

彼らが信じるイエス・キリストと、歴史的事実として存在したイエスは、その方向性としては、大きくは違わないのではないかと思った。我々の時代とイエスの時代では、時代の背景がかなり違うとしても。

ちょうどその反対のような、「正しい聖書信仰に立つ福音主義のクリスチャン」や「教派ではなく純粋なキリスト教を信じるクリスチャン」たちにも会った。それは、やたら、罪、悪魔、審き、地獄といった恐怖を強調して人を脅す人たちだった。彼らは、聖書やキリスト教について自信ありげに断定的なことを言うわりには、地獄で焼かれることを恐れてびくびくしていた。何よりも、自分は地獄に行きたくない、救われて天国に行きたいという思いが最優先のようだった。彼らは、困っている隣人のために指一本動かさない人たちだった。それどころか、自分がすべきことからうまく逃げて、人に押し付けたりしていた。年中、他教派や他宗教の悪口を言いまくり、仏教団体の福祉活動を「救いとは無縁」と鼻で笑って馬鹿にするような人たちだった。つまり彼らの「信仰」は、単に、自分が天国に行くための免罪符だった。
私は、この人たちが信じている「神様」はいない、それは頭の中で勝手に作った「神様」だと確信した。福音書から察せられるイエスのメッセージとまるで違うからだ。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け』(マタイ7:23)というのはこの人たちのことかと思った。
マインドコントロールされていたのだろう。自分で自分をさらにマインドコントロールして深みに嵌っているのではないかと思える人もいた。
彼らに対し、私も説得を試みたが、次々に鋼鉄の甲冑ではじき返されてしまった。
たぶん、イエスが説得しても、彼らはイエスに向かって言うのだろう。
「あなたは正しい聖書の読み方をしていません」
「あなたには信仰がないからそんなことが言えるのです」
「あなたは救いの中にいないようです」
「あなたはサタンの側です」
「あなたは正しい聖書信仰を理解しない気の毒な人です」・・・
彼らには、自分で目を覚ましてもらうしかないようだ。もともと真面目な人がそうなってしまったのだろうから、自分で気づいて、目を覚ましてくれるといいのだが・・・。

そのようなカルト思考の自称「福音派」ではなく、健全で理性的な福音派はどうなのだろう。
これまでも何度も書いた通り、私は福音派の人たちからずいぶんお世話になってきた。恩人である福音派を悪くなど言いたくない。聖書に文字通り忠実であろうとする福音派の見解は、それはそれで、キリスト教の中の考え方なのだと思うし、その信仰は尊重したい。だが、今の私は、福音派の側に加わることはできない。

今の私は次のように考えている。

「現代人が、現代の世界観を持ってイエスの教えに従おうとするのなら、プロテスタントの主流派(リベラル、エキュメニズム派)や現代のカトリックのように、歴史や科学を受け入れ、地球も宇宙もありのままに見るしかないだろう。」
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2022/05/post-2350.html

現代の世界観を持ち、かつ、キリスト教を語るなら、「イエスはキリストである」と信じた古代人が当時の表現で述べたことを、現代人がわかるよう置換して解釈する必要があるだろう。それはつまり、聖書の非神話化だ。

我々は古代人でも中世人でもない。我々は現代の科学を知ってしまった。現代の歴史研究の成果を知ってしまった。人々が聖書の記述をそのまま信じて素朴な信仰心を持っていた牧歌的な時代は過ぎた。我々はもう聖書を文字通り信じることはできない。

今も「聖書を文字通り信じます」と言う人もいるが、聖書がどのように成立したのかを考えても、文字通り信じるような性質の「無誤」の書ではないのは明らかだ。それに、聖書の記述と現代の科学や歴史認識との間に埋めようのない齟齬もある。齟齬をそのままにして、キリスト教は未来に進めるのだろうか。科学や歴史との食い違いを無視して「聖書だけが真理です」と言い張ったとしても、その聖書自体に多くの矛盾点があり、説明がつかなくなる。その結果、聖書のどこにもない話を創作し、聖書の記述と縫い合わせ、矛盾を感じないように見せるパッチワークのような作業が必要になってゆく。あるいは、文脈を無視した独特の聖書解釈に走り、ほとんど妄想のようなことを言い出すことになる。
イエスはそんなことを人に求めたのだろうか。

キリスト教が未来に進むためには、非神話化は避けて通れないだろう。
その前提は、科学的な聖書学の研究成果である。これは、今日の自然科学の研究や歴史の研究と矛盾しない。

誤解もあるようだが、非神話化は、イエスが人々に伝えようとしたメッセージの否定ではない!

(伊藤一滴)