キリスト教原理主義や聖書カルトの特徴
10代の頃、そうとは知らずに原理主義者(あるいはカルト)の「教会」で話を聞いていた自分の体験と、信者、脱会者から聞いた話から、キリスト教原理主義や聖書カルトの特徴を書きます。
思いつくまま書くので、順番は関係ないです。
新来者には、最初は優しく接して、受け入れてもらった気にさせる。
やがて、罪、悪魔、地獄などの恐怖を煽るようになり、罪悪感を植え付けて脅す。
罪の告白という形でプライベートなことも聞き出し、それも脅しに使う。
いつも、不安や恐れに囚われ、牧師や先輩信者の顔色ばかり伺うようになる。
自分で考えたり、自分で判断して行動するのをためらうようになる。
キリストに従うのではなく、牧師や先輩信者に従うようになっている。
信者同士の人間関係は濃厚で、最初はそれを良く感じるが、その濃い関係が互いを監視し合う役割を果たしている。
この教会から離れたら永遠の地獄で永遠に焼かれるのではないかという不安で、離れられなってしまう。
教理、信仰、考え方、信仰に基づく行動などの特徴は次の通り
(一般のキリスト教(特に福音派)と重なる部分もある)
「信仰の論拠は聖書66巻のみ」としている。そう言いながら、独自ルールもけっこうある。
「聖書は無誤無謬。歴史的にも、科学的にも、聖書に書いてあることは全て正しい」と言う。
「聖書に書いてあることだけに価値があり、書いてないことは無価値だ」と考えている。だから、「仏教史やイスラム教史などには価値がない。非キリスト教の思想や哲学にも価値がない」。
「進化論は間違っている」
「妊娠中絶は殺人であり大罪」
「日曜礼拝出席は絶対的な信者の義務」
「絶対禁酒」
「性に関する話はタブー」
「同性愛は死に値する大罪。同性婚など論外」
碁石を白と黒に分けるように、何でもあれかこれかで分けようとする二元論。「自分たちは正しく、自分たちの外の世界は正しくない」、「自分たちは神の側、外はサタンの側」、「クリスチャンは救われる、非クリスチャンは滅びる」。等々。
「リベラルなプロテスタントは間違っている、カトリックは間違っている」、「~は間違っている」と、やたら他派の悪口を言う。非キリスト教への悪口も多い。仲間の結束は固いが外には敵意むき出し。脱会者にも敵意むき出し。
「聖書のこの箇所はこうです」と、都合よく、簡単に断定する。聖書の専門家らは、聖書解釈に慎重で、簡単に断定したりしないのに。
信者の多くは純粋で真面目。悪意はない。マインドコントロールされ、時には自分で自分をマインドコントロールするようなことをして、信じ込んでいる。良い働きをしていると信じ、困難は救いのための試練と考え、原理主義やカルトに奉仕し、伝道している。
他教派や違う考えの人を大勢で取り囲み、詰問したりする。当人たちは、これも良い働きだと信じている。
反社会的な行動や非常識な言行を非難されているのに、「正しい信仰だから迫害されている、弾圧されている」と言う。
まだまだありますが、今日はここまでにします。
目を覚ましてくれるといいんですけれど・・・。
(伊藤一滴)
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