「正しい教会」のタブー
自称「福音派」の自称「正しい教会」には次のようなタブーがある。
牧師批判はタブー。
聖書が絶対であるように、聖書を教える牧師の言葉も絶対。
たとえ牧師が変なことを言っても、批判するのはタブー。
聖書以外に良いものを見出そうとするのはタブー。
すべての真理は聖書にあり、聖書以外に価値を求めてはならない。
聖書以外の教えは、どんなに善意でも道徳的でも、肯定的に評価してはならない。
他の宗教や他教派は、どんなに善意でも道徳的でも、肯定的に評価してはならない。
「神はクリスチャン以外の人たちにも働いておられる」は禁句。
特に、「非クリスチャンにも救いがある」は絶対に禁句。
自称「福音派」は言う。
バークレーの注解書やカトリックの主張、セカンドチャンス論などは間違っている、聖書に反する。
ガンジーや宮沢賢治の言葉であっても、彼らはクリスチャンではないのだから肯定的に評価してはならない。
杉原千畝はロシア正教の信者であり、福音主義者ではなかった。彼の行動をキリスト教信仰と結びつけて肯定的に評価してはならない。
エキュメニズム派(主流派のプロテスタントやカトリックなど)は正しいキリスト教ではない。彼らの行動や見解を肯定的に評価してはならない。
福音派の中にもエキュメニズムに理解を示す人たちがいるのは、間違った考えが入りこんでいるからだ。
他教派との交流で、サタンの影響が入り込むことがある。たとえ相手が福音派でも、牧師先生の許可なく勝手に他の教会の人たちと交流してはいけない。
キリスト教主義を掲げる学校の多くは間違ったキリスト教を教えている。行くべきではない。交流すべきではない。
人は信仰によって義とされるのであり、行ないによるのではない。善行は救いとは全く無関係である。善行をすすめるカトリックや他宗教にだまされてはいけない。
正しいのは正統的プロテスタントの聖書信仰に固く立つ福音的な教会だけだ。正しい教会の牧師先生に従い、毎週教会に通い、きちんと献金を納め、教会に奉仕し、福音を伝道することだ。
進化論を認めるクリスチャンは正しい信仰ではない。聖書を文字通り信じるなら進化論は成り立たない。正しい信仰のクリスチャンは進化論を否定して当然だ。
他派の聖書翻訳や注解書はつまずきになるから見ない方がよい。
日本聖書協会の口語訳聖書は学者の訳であって信仰的な訳ではない。新共同訳や聖書協会共同訳はカトリックの教義の影響を受けた訳であり、正しい信仰者は使わない。
いろいろな訳の聖書があるが、特に、田川建三訳「新約聖書」は正統信仰を破壊するものであり、厳禁だ。
八木誠一や荒井献などの本も信仰に悪影響を与える。読んでも無意味どころか有害だ。
他にも、岩波書店、教文館、新教出版社、日本キリスト教団出版局、ヨルダン社などから、正しい信仰に反する本が多数出ているから、注意が必要だ。
福音派の注解書であっても、いのちのことば社刊『新聖書注解』(全7巻)などは、問題のある人物も執筆に加わっている。間違った考えも載っているから、気をつけた方がいい。
(私は本当にそう言われたが、「福音派」にとって問題のある人物って? 問題のある人物とは誰で、どの箇所の注解がどう問題なのか、はっきり聞いておけばよかった。もしかして、「モーセ五書全体がモーセの著作です」なんて言っている人たちにとって、榊原康夫氏のモーセ五書緒論あたりが気に食わなかったのかな? 一滴)
タブーを破る人は、
「福音的でない」
「正しい聖書信仰に反する」
「間違った考えに毒されている」
「救われていない」
「最初から救われていなかった」
「サタンに魂を売り渡した」
「ゲヘナ(地獄)に向かっている」
「永遠のゲヘナで永遠に焼かれることになる」・・・
などど言われる。
そうした「正しい教会」で何が起きるのか。
罪や地獄を強調して恐怖心を植え付けるマインドコントロールの手法
不透明な経理
交代のない牧師の独裁、教会の私物化
パワハラの常習化
「正しい教会」のカルト化が進めば問題はさらに深刻化する。
指導者の異性問題
セクハラや性犯罪の隠蔽
牧師の世襲化と二世牧師らの不祥事
信者からの過度の搾取
信者の進学、就職、結婚などへの「福音的な」介入
信者のストレスや心の病
いろいろな証言が聞こえる。
(それ、「正しい党が指導する正しい社会主義国家」と似てないか?)
そうした「正しい教会」から離れようとする人は、タブー破りと同じようなことを言われる。
サタンの側にいるのはどちらだろう?
ゲヘナに向かっているのはどちらだろう?
ちなみに、私、一滴は、上に挙げたタブーを破りまくってきた。
破る気で破ってきたというより、はなからタブーなど無視しているから、その結果、破りまくった。
「私は、イエス様にしか従いたくない。貴方は神じゃない。」
ファリサイ派や律法学者が力を持つ社会で、当時の宗教的タブーを破りまくったのがイエス様ではなかったのか。
「それはイエス様だからできたのです。一般の人がそんなことをしてはいけません」とでも言うのか。
どういう理屈で何と言おうが、是は是であり、非は非だ。
(伊藤一滴)
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