ジェームズ・バー著『ファンダメンタリズム その聖書解釈と教理』のこと
まず、ネットで見かけた鴉(からす)氏の見解から。
引用開始
ファンダメンタリズムの誤解されやすい特徴(ジェームズ・バーによる)
ジェームズ・バー『ファンダメンタリズム その聖書解釈と教理』によると、ファンダメンタリズム(キリスト教根本主義、いわゆる原理主義)の特徴は、「聖書を文字通りに」読むことではなくて、「聖書にいかなる誤りも含まないように」読むことであるという。これは誤解しやすい点だと思うのでメモした次第である。
バーは、ファンダメンタリストや保守的福音派は聖書に文字通りに忠実に信じているという俗説を否定する。実際は彼らは必ずしも聖書の字義通りの解釈を行っているわけではないという。たとえば、創世記の創造物語も、文字通り6日間で天地創造されたと解釈していない例が載せられている。どうにか理屈をこねて無理やりにでも整合性を保とうとしているのである。
ただ気になったのは、バーは創造の日数を字義通りに受け取っているのは極端な保守派だと述べているが、この著作が出版された1980年前後に比べて、現在もその状況は変わらないかということである。また、バーのいたイギリスよりはるかにファンダメンタリズムが台頭しているアメリカや、ファンダメンタリストからリベラルとみなされている、日本基督教団やバプテスト連盟内でも決して無視できないファンダメンタル的勢力が存在する日本ではどうか。かえって当時より退化している可能性もあるのではないか。ネット上の自称クリスチャンを見ているとどうもそんな気がしてならない。
引用終了
出典:https://te-koku.com/archives/665
一滴のコメント
原理主義(ファンダメンタリズム)の信奉者たちは「聖書を文字通りに信じています」と言い張るが、実際は文字どおりには信じていない。
参照:http://yamazato.ic-blog.jp/home/2018/11/post-2bc9.html
聖書には多くの矛盾点がある。「文字通り」信じようとすれば、あちこち矛盾してくる。だから、強引につじつま合わせをする。
聖書のどこにも書かれていない話を創作し、それを聖書にある話と縫い合わせ、それこそパッチワークのようにつないで、「どうにか理屈をこねて無理やりにでも整合性を保とうとしている」。
それが彼らの教えの正体で、イエスが人々に伝えようとしたメッセージの伝道ではない。
信仰の中心は、罪、悪魔、地獄などの恐怖であり、絶えず恐れに囚われ、恐れに支配されている。福音は、喜びではなく、人を支配する道具になっている。そうした問題点を指摘されると怒り出し、「私たちは正しい信仰だから弾圧される」などと言い出す。
イエスの教えとは違う。
律法主義からの解放ではなく、聖書を律法のように使った「現代の律法主義」による束縛だ。
福音を信じる喜びではなく、信じなければ裁かれるという、恐怖による支配だ。
「この世はサタンの支配下にある」と考える人も多く、「サタンの支配下にあるこの世に関わっても無意味です」「もうすぐイエス様が再臨されるのですから、社会や政治の問題に口出ししたりしないで、ただ神の国と神の義を第一とすべきです」などと言う人もいる。社会を良くしていこうとしない。社会の諸問題に関心を持たず、世の中に関わろうとせず、それどころか、社会の問題に取り組む人たちを小馬鹿にして冷笑するような姿勢は、一般の善良な福音派と決定的に違う。
(ただし、原理主義者も一枚岩ではないから、社会や政治に口出ししてくるグループもある。世の中に関心を持っているかどうかだけでは、判別できない。)
「日本基督教団やバプテスト連盟内でも決して無視できないファンダメンタル的勢力が存在する」という。原理主義は、それこそファリサイ派のパン種のように膨らんでいるのかもしれない。
原理主義は宗教内の病理のようだ。宗教そのものが悪いわけではないが、内部に、原理主義という病巣が生じることがある。原理主義は、人に憑りついて、人の心を害し、理性、知性、判断力まで歪めてゆく。
キリスト教的に考えるなら、理性も知性も判断力も神から与えられた賜物であろう。「リベラル派は聖書の記述よりも理性や知性を重視しているので間違っています」などと言い、こうした賜物を否定するのは、神の恵みの否定ではないか。
ジェームズ・バー著『ファンダメンタリズム その聖書解釈と教理』(邦訳、ヨルダン社 1982年)は名著だと思う。残念ながら邦訳は絶版で、版元のヨルダン社自体、今はない。
保守的な福音派もこの本を読んで、考えて、そして改めるべき点は改めてほしかった。
邦訳は、その内容よりも、訳者の一人である喜田川信(きたがわ・しん)氏による「付論 日本におけるファンダメンタリズム」(邦訳421ページ以下)が問題になったという。
喜田川氏は、ご自身が日本におけるファンダメンタリズムの団体だと思う団体の実名を挙げ、指導的な7人の個人名まで記した。氏は、「これらの人々は自分がファンダメンタリストと呼ばれるのを極度に嫌い、その代り福音派という名前を好んで用いている」と言う。つまり、自称「福音派」の原理主義者(ファンダメンタリスト)だ、ということになる。
この本は、今は簡単に手に入らないから、参考までに喜田川氏が名を挙げた7人全員の名をここに書こうかと思った。
しかし、関係者への影響やご迷惑も考え、7人の中の、「この人はファンダメンタリストとは言えない」と、私が思う人の名前だけにする。
(なお、喜田川信氏自身が福音派の牧師であった。当然、氏には福音派を否定する意図などなく、ただ「福音派」と自称する日本の原理主義者らの問題点を指摘したかったのだろう。)
名前を出された一人の宇田進氏は保守的な福音派の人だけれど、博識の人で、視野の狭い原理主義たちとは違う。まして村瀬俊夫氏は、幅広く神学に関心を持って多面的な研究をなさっていた人で、原理主義者とは言えない。(お二人とも、最近亡くなっている。私とは立場が違うが、お二人のキリスト教研究、聖書研究の取り組みには敬意を表したい。)
それ以外の5人の人たちは、まあ・・・。
でも、何で、喜田川氏が名を挙げたファンダメンタリズムの指導者に、某クルセードの人が入っていないんだろう?
(クルセード(十字軍)、異端審問、魔女狩りなど、キリスト教の歴史の暗部、恥であろう。そうした恥ずべき語を、わざわざ自分たちの団体名に使うとは、一体どういう思考の人だったのだろう?)
ジェームズ・バー著『ファンダメンタリズム その聖書解釈と教理』の日本語版は、団体名や個人名を実名で記した付論によって、読みもしない人たちから激しく非難されることになってしまったようだ。
ジェームズ・バーはファンダメンタリズムについて論じたのであり、福音派全体を非難したりしていない。だのに、日本福音同盟は、付論に怒ったのか、本書を「偏見に基づいた福音派攻撃の本」であるとし、この本から学ぶどころか、逆に態度を硬化させ、シカゴ声明に近い見解を掲げるようになってしまった。それこそファンダメンタリズムへの接近ではないか。日本の福音派の団体は、そうやって、自分たちの手で、自分たちの範囲を狭めてしまった。
聞いた話と読んだ資料から思うのだが、かつて日本の福音派にはもっと多様性があり、柔軟性があり、幅があったようだ。以前から原理主義に近い人もいたけれど、比較的リベラルな人もいた。その幅のある中の人材によって、「新改訳聖書」(初版)が訳され、「新聖書注解」全7巻も出された。(ただし、翻訳者・執筆者の関心事や力量の違いか、書によってムラもある。)
「新改訳2017」を読みながら、翻訳者の思考の硬直化を感じた。これは初版より悪い訳だと思った。
初版は、よく意味がわからなくとも、書いてあるとおりに訳そうとした努力を感じる。「2017」は、最初から、この箇所はこう解釈すべきだという答えがあり、その答えに合致するように訳文を持って行ったように思える。
日本の福音派団体の保守化とも関係があるのかもしれない。
(伊藤一滴)
付記:共産党の支持者だって、本気で日本の社会主義革命を信じ、やがて理想的な共産主義社会が到来すると信じている人は、そう多くないだろう。
同じように、日本の福音派団体に属する人のすべてが、聖書の無誤無謬を何の疑いもなく信じているとは思えない。「信仰と生活の規範として、聖書は無謬」と言うのならともかく、科学的にも歴史的にも聖書は無誤だなんて心から信じている人は、そう多くないと思う。
事情があってある団体に所属している人が、一応、団体の公式見解は否定しないでいる、ということではないのか。
地球が出来たのは紀元前4004年頃だとか、ノアの箱舟のときの洪水で恐竜が絶滅したとか、昆虫は足が4本だとか、レビヤタン(リヴァイアサン)は本当にいたとか、本気で信じている福音派は、どれくらいいるのだろう。そしてそのような信じ方を、イエスは求めたのだろうか。
私がこれまで接してきた福音派の方の多くは、素朴で純粋な信者であった。少しでも世の中をよくしてゆきたいと、祈りながら、学んだり働いたりしておられた。人の話をよく聞き、人を悪く言わない人たちだった。私も親切にしていただき、お世話になった。本当に、申し訳ないくらいお世話になった。ありがとうございました。
福音派と原理主義者は、神学や教義は重なる部分も多いのだろうが、生きる姿勢、向かう方向が違う。
私が会った原理主義者(ファンダメンタリスト)らは、
自分たちの外部に関心がない。
社会をより良くしようとしない。
困っている人を助けない。
暗記するくらい聖書を読んで、「聖書に書いてあることを書いてある通りに信じています」などと言いながら、イエスが求めることに従わない。
肝心なときに、人に役目を押し付けて、自分はうまく逃げたりする。
そうした態度を聖書の言葉で理屈をつけて正当化する。
人の話を聞かない。
事実を指摘されると、反省するのではなく、怒り出す。
怒りながら、「私たちは正しい信仰だから弾圧されています」などど言う。
年中、人の悪口を言っている。特に、カトリックとリベラルなプロテスタントの悪口が多い。
非クリスチャンへの悪口も多い。
当人たちは本気で信じているのだろう。
でも、それは、伝道になるのだろうか?
かえって、人を、聖書やキリスト教から引き離しているのではないか。
罪、悪魔、地獄などを極端に恐れ、恐怖心によって結束し、ここから離れたら永遠の地獄で永遠に焼かれるかもしれないと恐れて、離れられなくなっているだけだろう。
こうした特徴で、この人たちは一般の善良な福音派とは違う、原理主義者だ、と見分けられる。
中間的な人もいるから、福音派と原理主義者をきれいに2つに線引きはできないが、傾向として、見分けられる。
こちらで取り上げられている本を人に貸しっぱなしでそろそろ返してもらおうか、それとも差し上げてもう一冊買おうかと悩んでおり調べていましたらこちらのページが見つかりました。わざわざ随分前の拙い感想文を取り上げて頂っていて恐縮です。
当方は変わらず神学的なファンダメンタリズムには批判的ですが、近年の「リベラル」左派の政治や社会運動を見ていますと、「多様性」の旗印に反して結局彼らも自分の信念を絶対視して他の考えは高圧的に断罪して排除するという点で思考回路自体は偏狭なファンダメンタリストたちとそう変わらなくなってきているのではないか、伊藤さんが挙げられたような原理主義者の特徴は彼らにも概ね当てはまるのでないかと感じております。いわゆるリベラルなプロテスタント教派もそのような動きにあまりにも無批判に追従し過ぎではないかと、比較的若手の(といっても大抵は自分のほうが若輩ですが)牧師などと直接話していても危うさを感じますし、ましてTwitterなどを見ますと罵詈雑言だらけで目も当てられません。
当方以前から統一教会等による大学での偽装勧誘などへの注意喚起もしてきた人間ですが、故安倍晋三氏らの右派政治家の信念や統一教会には批判的でも先鋭的な「リベラル」にも同意できずに葛藤を抱えているような人とて相当数いて当然のはずで、仰るように綺麗に二つに線引きなどできないはずなのですが、現状のような安易な二元論化は対立をいたずらに生んでいるだけで、キリスト教に限ってもファンダメンタリズムと同じく源泉の豊かさをかえって狭めてしまっているのでないかと大変危惧しております。
一方少なくとも日本のリベラルな教派の原理主義的勢力は現在も細々と生き延びているだけでパン種のように膨張することなく大した力は持っていないように見えます。私が知っている保守的な人たちに限っては、神学的には原理主義に限りなく近い人もいますが、話はできる人がほとんどで、内心苦々しく思いながらも自分たちが少数派であることは自覚していて肩身が狭い中でよく辛抱強く付き合ってくれているものだと現在ではかえって気を遣うようになってきました。
昨今での運動と書きましたが、訳書にもかかわらず喜田川信氏が実際は多様な幅のある指導者をファンダメンタリストと一緒くたにしてわざわざ論難したのはやり過ぎで、同じような危うさの萌芽は当時からあったのかもしれません。改めて色々なことを考えさせられ感謝致します。長々と失礼致しました。
投稿: 鴉 | 2023-05-18 19:34
鴉様
コメントいただきありがとうございます。
おっしゃる通り、自由なはずのリベラル(liberal)の中に硬直化して排他的になっている人たちがいるのを私も感じています。
どうも、福音派かリベラルかではなく、キリスト教は寛容派と不寛容派に分かれてしまい、間に中間的な人もいるように思えます。インターネットの普及もあって(もちろんインターネットの良い面も多いのですが)、主張が精鋭化し、ゆるさや寛容さが狭められたように感じられます。
不寛容な人たちは、あれかこれかの二分法・二元論の思考になってしまっているようですが、現実は簡単に白黒がつかない事象も多いわけで、中庸を重んじるバランス感覚が必要だろうと思うのです。
福音派の中に特に保守的な人たちもおり、主流派の一部にさえファンダメンタリズムに近い人たちがいます。こうした人たちが力をつけたら怖いと思ったこともありましたが、日本では、彼らが公然と暴力をふるうようなことはないようですし、もしかすると、より良い方向に変わっていくのかもしれないという期待もあります。
カトリックだって第二バチカン公会議を経て変わりました。最近のいのちのことば社の出版目録などを見ると、原理主義的な方向から対話型の方向に変わってゆく途上かもしれない、という気もします。
今後も良識を持って現実を見ながら考えていきたいです。
ありがとうございました。
一滴
投稿: 伊藤一滴 | 2023-05-26 17:07