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イエスよりパウロを重視する人たち

キリスト教を名乗る人たちの中に、「イエスは何を教えたのか」より「パウロは何を教えたのか」を重視したがる人たちがいます。

パウロ重視の源流は原始キリスト教の時代にまで遡るのでしょうが、ルターやカルヴァンによって強化され、今に至っています。

共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)に記されたイエスの言葉さえ、いったんパウロというフィルターを通して解釈するのです。その人は無意識にそうするのでしょうが、イエスの言葉よりもパウロの言葉が上で、「パウロの下にイエスがいる」形になっています。
もちろんパウロ自身は自分はイエスより上だなんて言ってませんが、「パウロが理解した信仰」を「共観福音書が伝えるイエスの言葉」より上に置くクリスチャンがかなりいるんです。

何の先入観も持たずに素直に福音書を読むなら、「人はそのよい行ないによって正しい者とされる」「何の落ち度もないのに苦しんで死んでいった人は、信仰や善行の有無を問われずにアブラハムのふところに上げられる」と読めるイエスの言葉さえ、パウロの見解を使って否定するのです。

だから、
「キリスト教と名乗るパウロ教だ」
と揶揄されるのです。


「聖書的にこうです」という言葉をやたら使う人がいますが、多くの場合「パウロの見解に照らし、こう解釈します」という意味か、あるいは単に「私の教会の(または私個人の)見解ではこうです」という意味です。

聖書を専門的に学んだ人たちは「聖書的にこうです」なんて、軽々しく言いません。そんなことは簡単に言えないと、よくわかっているからです。

聖書の学びの水準が低く視野も狭い人たちが、やたら「聖書的にこうです」とか、「聖書のこの箇所はこういう意味です」とか、断定的に言いたがる傾向があるようです。劣等感があるから、自分の弱点を見せたくなくて、さもわかっているかのように断定的に言うのかもしれません。しかもそう言う人たちも一枚岩ではなく、それぞれの立場でそれぞれに違うことを断定したりします。

牧師まで「聖書的にこうです」や「聖書のこの箇所はこういう意味です」を連発するようであれば、おそらく、聖書の学びの水準が低く視野も狭い牧師でしょうから、その教会から離れることも含めて距離を取ることを考えた方がいいと思います。

(伊藤一滴)


付記

例外もあるかも知れませんが、多くの場合、教会や牧師の水準と信者の金銭や労力の負担は反比例の関係にあるようです。つまり、教会や牧師の水準が高いと、信者の負担が少なくて済み、水準の低い教会や牧師だと、信者の負担が大きくなるのです。中には、罪・悪魔・地獄などの恐怖で信者を脅し、お金や労力を搾取する「教会」もあるようです。そういう「教会」は、集められたお金が何に使われたのか不明朗であったりします。

私は、特にブランド志向ではありませんが、教会で話を聞いてみたいという方には名の通った有名ブランドの教会をおすすめしています。社会的信用のある有名な教会は、一般的に安全で信頼できる場合が多いからです。あの人たちは信頼できる人たちだという社会の共通認識があるから、信頼される教会として存在しているのです。また、そこに集う人たちと関係のある学校、医療機関、福祉団体等々も信頼できる場合が多いのです。
団体の大きさではありませんが、信頼できる人たちは「信頼できる人たちの集まり」をつくり、信頼できない人たちは「信頼できない人たちの集まり」をつくります。「信頼できない人たちの集まり」の中で、良い学びや良い活動はできません。

教会はその人のステイタスシンボルではありません。有名ブランドの教会は、服や鞄やアクセサリーとは違います。人に自慢するものでもありません。信頼できる教会だから、自然と有名ブランドになったのです。

ルカの描くイエス

パウロの考えに合わせるのではなく、マタイが描くイエスの言葉をそのまま素直に読むと、「人はその良い行ないによって正しい者とされる」と読めます。
では、ルカの描くイエスはどうなのでしょう。
ルカ福音書から引用します。

16:19ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
16:20ところが、その門前にラザロという全身おできの貧乏人が寝ていて、 16:21金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。 16:22さて、この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。 16:23その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。 16:24彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』 16:25アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。 16:26そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』 16:27彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。 16:28私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』 16:29しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』 16:30彼は言った。『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。』 16:31アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』(ルカ 新改訳)(ハデス=陰府、引用者)

以前も引用しましたが、興味深い箇所です。

「ラザロには信仰があった」とはまったく書かれていません!
苦しんで死んでいったことが書かれているだけです。
また、「金持ちには信仰がなかった」とも書かれていません。
ラザロが全身の出来物と空腹で苦しんでいるのを知りながら、自分はぜいたくに遊び暮らし、ちっとも助けようとしなかったことが書いてあるのです。

パウロというフィルターを通さないでここだけ読んだらどうでしょう。

「病気や、貧困や、飢えの中で、苦しんで死んでいった人は、苦しんで死んでいったというだけでアブラハムのふところまで上げられる」という主張でしょう。
ここでは、信仰の有無などまったく問われていません。良い行ないをしたかどうかも問われていません。

この箇所を引用して説教する牧師たちは、何故この話からラザロの信仰を読み取ろうとするのでしょう。「ラザロには信仰があった」なんて、イエスはまったく言っていないのに。

たとえ話ですから架空の話なのでしょうが、ラザロという具体的な名前まで出てきます。しかもこの金持ちはラザロの名を知っていたのです。
もしかすると、何か、実際にあった出来事をモデルにした話なのかもしれません。

イエスの時代、何の落ち度もないのに、病気や、貧困や、飢えの中で、苦しんで死んでいく人たちがいて、イエスはその現実を知っていたのでしょう。
歴史の中でも、ずっとそうでした。時に、教会は人の苦しみを助長する側でした。
現代でも、苦しんで死んでいく人たちがいる一方で、豊かに暮らしているクリスチャンたちがいます。

苦しんで死んでいった異教徒たちはみな永遠の地獄で焼かれ、豊かなクリスチャンたちは「信仰」によって救われてみな天国に行くのでしょうか?

前にも書いたとおり、私は、難民・移民を拒絶するクリスチャン、壁を作ろうとする人やその支持者のクリスチャン、イスラム文化圏の人たちを平気で抑圧するクリスチャンのことを思います。彼らは、自分たちは正しいキリスト教を信じているとしながらイエスを拒絶しています。

イエスを拒絶する「正しい信仰」!
 
そのことに気づいてほしいと思います。

参照 http://yamazato.ic-blog.jp/home/2020/01/post-b275.html

ルカの描くイエスは弱者に優しいのです。
苦しんで死んでいったラザロは、信仰の有無も善行の有無も問われません。御使いによってアブラハムのふところへ上げられたのです。

著者は医者のルカとされてきました。もしそうなら、パウロの伝道の旅に同行した人です。でも、その視点は、パウロとはだいぶ違います。

(伊藤一滴)

最近、政治問題を書かなかったのですが、

急に寒くなり、秋が深まるのを感じています。
山里は、今年もまた冬を迎える準備です。


解散総選挙ですね。

野党がどんなに国会の開催を要求しても応じなかったのに、内閣総理大臣選出のためにはすぐ開くんですね。そして新内閣はほとんど何もせずに解散なんて。
そんなのあり?

野党が給付金を提案しても応じなかったのに、選挙前になると今度は自分たちから給付金の話ですか。ずっと与党だったんだから支給すればよかったのに。
そんなのあり?

共謀罪や安保法をめぐる諸問題、
モリ・カケ・サクラ、
学術会議任命拒否、等々、
何の進展もないままに解散総選挙ですか。
アベスガ政治の深い闇は、何も明らかにならないのですね。

国民は、自分たちの未来を決める投票をすべきです。
棄権しても意思表示にはなりません。
こんなに投票率が低いんだから身を引き締めようなんて、政治家は思いません。
棄権が多くなれば、組織票を持つ自民党や公明党が有利になるだけです。

非難の意味のつもりで白票を投じても、票が死ぬだけです。有効票を投じましょう。
ぜひ入れたいと思う候補者がいなくとも、よりましだと思う候補に入れましょう。

私としては、自民、公明、維新、NHKなんたらの議員を可能な限り減らしたい。

国民は、自分たちの未来を決める投票をすべきです。


最近、政治問題を書かなかったのは、マスコミが報じてくれるので特に書く必要を感じなかったからです。
安倍長期政権全盛の頃、マスコミの忖度ぶりはひどかった。ネットはまだ自由にものが言えたので、私はガンガン非難を書きました。
政権交代もなく、マスコミの批判的報道もなければ、権力は勝手に振る舞い腐っていく一方です。
大衆が扇動政治家に乗せられたり、乗せられなくても無関心であったりすれば、どんどん腐敗する権力が国家のあり方まで蝕むのです。
日本を腐敗国家にしてはいけない。

「こっちは日々の生活に追われていて、天下国家にかまっている余裕などない。そんなの、時間に余裕のある人たちが勝手に選挙でも何でも行けばいい」みたいなことを言う人がいますが、違います、日々の生活を守るためにこそ天下国家を腐らせてはいけないんです。

以前、野党議員がおっしゃった「魚は頭から腐る」は的を得た名言でした。
国家は政権与党から腐るのです。特に、首相とその取り巻きたちから腐るのです。
安倍政権の腐敗に今も目をつぶり続ける自公政権に、国民は審判を下すべきです。


あわせて、最高裁判所裁判官の国民審査もあります。
これまで罷免された例はありませんが、バツ印をつけられると裁判官はかなり緊張するそうです。
裁判官が国民の目を意識して緊張を高めれば、不当判決も減るでしょう。

バツをつけて緊張させましょう。

よくわからないから何も書かずに出すという人が多いようですが、よくわからない人をどうして信認できるのですか? よくわからないならバツにすべきです。そうされたくないなら、裁判官はわかってもらう努力をすべきでしょう。

これまで不当に思える判決を出した裁判官はもちろん、よくわからない裁判官も、私はバツをつけることにしています。

民主主義を守るのは国民の不断の努力です。

(伊藤一滴)

聖書に書いてある出来事の食い違いと、考え方の食い違い その2

2.考え方の食い違い

今回は、聖書そのものに見られる考え方の違いについての話です。
聖書には、「書いてある出来事の食い違い」や「引用された文章の食い違い」だけでなく、「各文書の執筆者による考え方の違い」もかなりあります。

以前書いた通り、聖書を引用して正反対の主張もできます。

http://yamazato.ic-blog.jp/home/2019/11/post-716b.html

http://yamazato.ic-blog.jp/home/2019/08/post-95f2.html

http://yamazato.ic-blog.jp/home/2019/11/post-ef6a.html

同じ箇所の翻訳の違いや解釈の違いだけではなく、聖書の各文書にはもともと考え方の違いがあり、聖書から引用してかなり違う主張ができるのです。
ですから、聖書は読みようでどうにでも受け取ることができて、何とでも言えるのです。

歴史上、パウロの書簡とされた文書が教会の見解や教会運営の指針のようになり、パウロ(およびパウロを称して書簡を書いた人)の考えに沿うように他の文書が解釈される傾向がありました。今も、クリスチャンの中に、すべてパウロ的な視点から解釈しようとする人たちがかなりいます。

もし、パウロ等の書簡をまったく読まずに他の聖書の文書を読んだなら、どうなるのでしょう。
その人は、「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである」(ロマ3:28 口語訳)と思うでしょうか。

もし、マタイ福音書だけ読んだらどう思うでしょう。その人はきっと、律法順守も善行も大事だと思うことでしょう。ユダヤ人マタイにとっては律法の行ないも善行も大事だったのです。

引用が長くなりますが、マタイ福音書に記されたイエスの言葉の一例を挙げます。

「25:31人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます(ママ)。 25:32そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、 25:33羊を自分の右に、山羊を左に置きます。 25:34そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。 25:35あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、 25:36わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』 25:37すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。 25:38いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。 25:39また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』 25:40すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』 25:41それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。 25:42おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、 25:43わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』 25:44そのとき、彼らも答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。』 25:45すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』 25:46こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。」(マタイ 新改訳)

これは「人の子」が来て栄光の位について王となったときの話です。
「人の子」はその人の信仰の有無について何も言いません。「あなたには信仰があるので救われます」とは言いません。

先入観なしに素直に読むなら、人は「最も小さい者たちのひとりにした」その行ないによって正しい者とされ、救われると読めます。そして「最も小さい者たちのひとりにしなかった」者たちが永遠の刑罰を受けるというのです。イエスを信じるかどうかについてはまったく言及されていません。(※1)

この箇所だけでなく、そもそもマタイは「イエスの十字架の死は、私たちの罪を贖うためだった」とか「イエスの十字架の贖いを信じる者が救われる」とか一言も言っていないのです。マタイには、そのような考えはなかったとしか考えられません。もしマタイにイエスの十字架の贖罪という考えがあったとしたら、それを福音書に一行も書かないのはあまりにも不自然です。

「イエス様の贖罪はクリスチャンには自明のことでしたから、マタイはわざわざ書かなかったのでしょう」と反論する人もいるでしょう。では、マタイの描くイエスが、律法を守ることを重んじ、善行を重んじていることとの整合性はどうなるのでしょう。
マタイは、そしておそらくイエスも、律法を重んじると共に、行ないによって人は正しい者とされると思っていたのでしょう。パウロとは根本的に発想が違うのです。パウロの神学はパウロの見解であり、マタイが描いたイエスの見解とは違います。だから、マタイが記したイエスの言葉から、いわゆる万人救済論を導くことも可能になるのです。(※2)

「福音派」と名乗る人たちの中に「人の救いはただ信仰によるのであって、行ないは無関係です」と言う人がいますが、マタイが描いたイエスにはそうした発想はないのです。

もし、マタイ福音書を読んでから途中をとばしてヤコブの手紙を読んだらどう思うでしょう。
ヤコブの手紙から引用します。

「2:14わたしの兄弟たちよ。ある人が自分には信仰があると称していても、もし行いがなかったら、なんの役に立つか。その信仰は彼を救うことができるか。 2:15ある兄弟または姉妹が裸でいて、その日の食物にもこと欠いている場合、 2:16あなたがたのうち、だれかが、「安らかに行きなさい。暖まって、食べ飽きなさい」と言うだけで、そのからだに必要なものを何ひとつ与えなかったとしたら、なんの役に立つか。 2:17信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。 2:18しかし、「ある人には信仰があり、またほかの人には行いがある」と言う者があろう。それなら、行いのないあなたの信仰なるものを見せてほしい。そうしたら、わたしの行いによって信仰を見せてあげよう。 2:19あなたは、神はただひとりであると信じているのか。それは結構である。悪霊どもでさえ、信じておののいている。 2:20ああ、愚かな人よ。行いを伴わない信仰のむなしいことを知りたいのか。 」(ヤコブ 口語訳)


「人の救いはただ信仰によるのであって、行ないは無関係です」と言う人たちは、イエスの発言よりパウロを重んじ、ヤコブの手紙よりパウロを重んじるパウロ信者なのでしょうか?

「聖書はバランスよく読むべきです」などど言いながら、やたら旧約と、ヨハネ福音書と、パウロ等の書簡と、黙示録を重視していませんか? それも自分たちに都合のいい箇所だけ引用し、都合の悪い箇所は軽視(あるいは無視)していませんか?

「福音派」はパウロが特にお好きなようですが、パウロは神ではありません。パウロの言葉の中には時代の制約の中で発せられた言葉も混じっています。女性を低く見る発言、奴隷制を認める発言、性的少数者に無理解な発言、上に立つ(ローマ帝国の)権威に従うべきだといった発言などがそうです。(※3)

共観福音書のイエスの言葉を、いったんパウロらの見解というフィルターにかけて、さらにルター、カルヴァンというフィルターにかけて、さらに自分が属する教派の見解というフィルターにかけて、多くのフィルターを通してから、自分好みにして読んでいませんか?


もし、マタイ福音書の著者とパウロらとヤコブ書の著者とが「人の行ないと救い」についての話し合いをしていたらどうなったのでしょう?
マタイとヤコブは見解がかなり一致したかもしれません。パウロたちとは話し合いが平行線になり、しまいには激論になって喧嘩別れしたかもしれません。

相容れない考えを持つ人たちが書いた文書が、1冊の聖書に収められているのです。(※4)

(伊藤一滴)


※1 「あなたは難民・移民を排除し、壁を作ろうとし、有色人種を差別し続け、次々に嘘を言い、陰謀論で人を惑わしましたが、あなたには信仰があるので救われます」って、神様はおっしゃるんでしょうか?
「あなた飢えと寒さに震えていた人たちを招き入れ、温かい食べ物や飲み物、衣類や毛布を渡して助けましたが、あなたはイスラム教徒だから(あるいは無神論者だから)、永遠の地獄の火の中で永遠に焼かれ、泣いて歯ぎしりするのです」って、神様はおっしゃるんでしょうか?

※2 マタイ福音書の記者はユダヤ人であり、律法に従うことと善行を重んじていました。
イエスが教えた「律法と預言者(の教え)」の頂点は、「心から神を愛することと隣人を愛すること」だというのがマタイの証言です。イエスの十字架の死が描かれていますが、その十字架の死は罪の贖いであったという贖罪論は、マタイには出てきません。まして、贖罪を信じなければ救われないなどと、マタイは一言も言いません。

※3 パウロの名誉のためにも書きますが、パウロと言えど時代の子です。当然、時代の制約の中で生きた人です。現代人の視点からパウロを非難するのはフェアではありません。
また、パウロ書簡の中の女性を低く見る発言は後に書き加えられた可能性もあります。
パウロの「ローマ書」(ローマの信徒への手紙)の末尾の挨拶など、何度読んでも女性を低く見ているとは思えません。もっとも、このローマ書の末尾こそ後代の書き加えと考える人もいますが・・・・。そんなに教会から女性の責任者を排除したいんですかね。

※4 前回も今回も、聖書の常識レベルの話で、何か特別なことを書いたわけではありません。(原理主義者やカルトは別として)一般の教会の牧師や司祭なら、みんな知っているような話です。でも、牧師や司祭は一般信者にこうした話をしませんね。何を恐れているのでしょう。つまずきになると思うのか、教義に反すると言われたくないのか、一般信者は「嘘も方便」のような「方便」だけ信じていればいいということなのか。
もう教会が情報を独占できる時代ではないのです。聖書学の成果は、一般の書籍としても刊行され、ネット上にも数多く流れています。
強い先入観を持って意識して目を閉じ、意識して耳をふさがなければ、当然、聖書の常識が目や耳に入ってきます。
イエスの教えって、「都合の悪い話には目をつぶれ、耳をふさげ」っていう教えなんでしょうか?


かつての教会の見解が後に変更された例はいくつもあります。
一例ですが、教会は、地球は宇宙の中心にあり地球の周りを天体が回っていると考えていました。そんな時代に「地球は太陽の周りを回っている」などと言ったら異端者とされたことでしょう。今は、天動説を主張をする教会はまずありません。自然科学の研究の発達により、教会の側が見解を変えたのです。
歴史的批判的な聖書学の研究成果を無視したり非難したりするのではなく、今日の常識的な聖書学の成果によって、教会の側が見解を見直すべきなのです。

聖書に書いてある出来事の食い違いと、考え方の食い違い その1

1.出来事の食い違い

(福音書は新改訳から引用します。イエスの言葉づかいが丁寧で、好きだからです。他意はありません。新改訳が特に正確だと思うとか、この訳を使っている教派を応援するとか、そういった意図はありません。なお、福音書以外は口語訳聖書から引用します。)

聖書に書いてある出来事も、考え方も、文書によって食い違いがみられます。
まず、出来事の食い違いを、新約からいくつか挙げると・・・・、
イエスの誕生の話はマタイとルカで違う。
イエスを裏切ったユダの最期はマタイ福音書と使徒行伝で違う。
イエスの十字架の死は過ぎ越しの食事の前なのか後なのか、ヨハネ福音書と共観福音書とで違う。
マルコによればイエスは午前9時頃に十字架にかけられたというが、ヨハネによれば昼の12時にまだ十字架にかかっておらずピラトから尋問を受けている。(ヨハネ福音書だけはローマ式の時間表記なので、昼の12時ではなく朝6時だという「新改訳」翻訳側の説明はあまりに不自然。そんな説明は新改訳だけ。)
イエスの両側に磔にされた犯罪人の発言がマルコとマタイはほぼ一致しているのにルカだけ違う。
イエスが死の直前に発した言葉も福音書によって違う。
イエスは酸いぶどう酒を飲んで死んだのか飲まずに死んだのか、福音書によって違う。もし飲んだなら、「まことに、あなたがたに言います。神の国で新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは、もはや決してありません」(マルコ14:25他)と矛盾する。(「口に受けただけで飲み込まなかったのです」とでも言うのかな?)
神殿の幕が裂けたのは、イエスが死ぬ前なのか、死んだ後なのか、福音書によって違う。(「幕は二度裂けたのです」と言うのかな? それとも「幕は2枚ありました」とでも?)
日曜の朝、イエスの墓に行ったのはマグダラのマリアだけなのか複数の女たちなのか、墓の石は目の前で転がったのかすでに転がしてあったのか、墓に入ったのか外で泣いていたのか、また墓で誰と会ったのか会わなかったのか、福音書によって話がばらばら。
女たちは墓での出来事を誰にも言わなかったのか、弟子たちに知らせに行ったのか、またペトロだけすぐ墓に向かったのか誰かが先に着いたのか、その後弟子たちはガリラヤに行ったのか、エルサレムに留まったのか、これもそれぞれ記述が違う。
まだまだありますが、こうした食い違いは以前から気になっていました。
他にも、出来事ではありませんが、新約に引用された旧約の文章と旧約のその箇所とが一致しない、というのもあります。七十人訳を引用したのでしょうが、時々、記憶違いもあったようです。無誤無謬の聖書の原文に記憶違いによる引用のミスとは?

「聖書は無誤無謬の神の御言葉です。食い違いなど一切ありません」なんて言っている人たちは、一体どういう聖書の読み方をしているんでしょう?まず、強力な先入観があって、すべてその先入観に合致するように話を曲げながら読んでいるのでしょう。そして、たぶんその強い先入観は、かなり保守的な福音派かカルト思考原理主義の「教会」から植え付けられたのでしょう。あるいは、親から先入観を植え付けられた宗教2世や3世の人もいるのでしょう。
無心に、冷静に読むなら、食い違う記述の数々に気づくはずなのに。

私は山形県の田舎町に生まれました。私の家はキリスト教とは無関係でした。私は教会の教えより先に聖書そのものに出会いました。小学校3年生でした。聖書との出会いが先でしたから、特定教派・特定教会の独自の先入観に染まらずに済みました。しかも私の両親はかなりの宗教嫌いでした。若い頃に宗教の勧誘を受け、あまりにもしつこく勧誘されて嫌な思いをしたのだそうです。病人や障害者や困っている人たちを狙って巧みに接近してお金を巻き上げる宗教もあり、不愉快だったそうです。両親にとって宗教は駄目なもの、人の心をおかしくするもので、否定すべきものでした。小学生だった私は、聖書を読んでいるのを見つかると叱られるので、親に隠れてこっそり読みました。
幼かった私は新約聖書に記されたイエスの言葉に心を動かされました。中学生のときに黙示録まで新約聖書を全部読み終えました。日々聖書を読みながら、だんだんに私は、イエスの教えに従って生きていきたいと思うようになっていました。
高校に入ってから旧約と新約が1冊になった聖書を買い、さらに聖書やキリスト教に関する本を読みふけりました。高校卒業後は仙台市内に移り住み、優しく親切な福音派の牧師さんのお話を伺いながら、同じ時期にブルトマン著「共観福音書の研究」や「新約聖書と神話論」、八木誠一著「イエス」などを読んでいました。 それは、くもりガラスの向こうに、ぼんやりとイエスの姿を感じるような、そんな感覚でした。若かった私は、そうした感覚で、そんなイエスについていこうと思ったのです。http://yamazato.ic-blog.jp/home/2017/04/post-9c77.html


今も、私は、ぼんやりとイエスの姿を感じるような感覚です。それこそパウロが言うように、鏡にぼんやり映るものを見て、一部分しか知らずにいるような感じです。
そして、それでいいと思っています。
もし、聖書の細かい点まですべて矛盾なく鮮明にわかったならば、それは世の終わりの時かカルトの教えかどちらかでしょう。まだ世の終わりでない以上、聖書の細かい点まですべて矛盾がないかのように鮮明に説明する人たちは、例外なくカルトやカルト思考原理主義者です。他者と対話せずに「聖書的にはこうです」と一方的に断定し、それが正しい聖書理解だと思い込んでいるだけです。こうした人たちの多くは他の聖書解釈を否定して攻撃します。一見、矛盾なく聖書の記述を説明しているかのようですが、よく話を聞いてみると矛盾だらけです。それを指摘すると火がついたように怒り出すのも同じです。自分の信仰が否定されたと感じるのでしょう。私は、矛盾について言っただけで、キリスト教の信仰を否定したことなどないのに。
そうした聖書カルトやキリスト教原理主義にも諸派があり、それぞれの言い分も食い違っていて、それぞれに「聖書的にはこうです」と言い張り、非難し合い、対立しています。「あなた方は互いに愛し合いなさい」というイエスの教えに従う気がないようです。エキュメニズム(教会再一致運動)を否定し、自分たち独自の考えを聖書の真理であるかのようにかたって外部との対立を繰り返しているだけです。
「カルト問題でお困りの方、相談に乗ります」なんて言う人もいますが、そう言う自分たちもカルト思考です。そんなところに相談したら、あるカルト系から別のカルト系へ引っ張られるだけなのに。そうした人たちはキリスト信者なのでしょうか。
独自のパウロ信者?分派信者?教派信者?牧師信者?イデオロギー信者?
いったい何信者なのでしょう?
根底に他者否定があるようです。この他者とは人間だけでなく、考え方も含めての他者です。http://yamazato.ic-blog.jp/home/2021/07/post-8a4e.html


自称「福音派」の人たちは、エホバの証人などの評判の悪い原理主義・カルトとよく似ています。「自分たちは正しく、自分たちの外の世界は間違っている、外はサタンの支配下だ」と信じて、徹底的に他者を否定することが自分たちの存在意義であるようです。
(伊藤一滴)

山里の暮らし 番外編 猫

前にもちょっと書きましたが、我が家の近くに猫を捨てていく人がいます。
困ります。
山の中に猫を捨てたりしないで、どうか里親を探してください。
それ以前に、不妊手術をお願いします。

人を見ると逃げる猫は、どうすることもできません。
でも中に、寄ってくる猫もいます。怪我をしている猫もいます。

これまで何匹かの猫を助けました。

今は成人した次男が中学生だったときでした。誰もいない場所でチリンチリンと鈴の音がします。
ちょっと不気味でしたが、何だろうと思って見に行くと・・・・、鈴のついた首輪をした白猫が家の敷地に入って来てました。やせていて、汚れていて、おなかをすかしているようです。歩き方も変で、足が不自由なのかと思いました。玄関にエサを置いたら食べていました。

鈴のついた白猫なのでスズシロ(鈴白)と呼ぶことにしました。
近づいてよく見たら、首輪がきつくなって首に食い込んでいます。子猫のときに首輪をしたまま捨てられ、そのまま成長したんでしょう。ひどいなあ。痛いだろうに。
首輪を外してやろうとしたんですが、触ろうとすると逃げます。エサは食べるし、人の近くまでは来るんですが、触らせてくれません。
首輪の周りに血が滲んでいます。足が悪いのではなくて、首の傷のせいで歩くのが不自由だったようです。首をうまく動かせないから毛づくろいも出来なくて、汚れていたのでしょう。

次男と2人で捕まえることにしました。噛まれるといけないので2人とも厚手の服を着て、厚手の革手袋をして、エサを食べに来たところを狙い、次男に魚を捕る網でさっと捕まえてもらいました。私がおさえて首輪を外そうとしたのですが、スズシロは必死で抵抗します。殺されると思ったのか、猫も本気です。
何とか早く首輪を外してやろうとしても、首輪は皮膚に食い込んでいて、金具の部分も含めて首輪全体が血と膿で固まっていて外せません。スズシロは声を上げてもがくし、もう仕方ない。妻にすぐ工具箱からニッパーを持ってきてもらい、首輪を切りました。首の皮膚も一部切れましたが、食い込んだ首輪だけを切れないんで仕方ないです。消毒してやろうと私が手を緩めたら、スズシロは不自由な走り方でダーッと逃げてしまいました。

何日かして、スズシロはエサを食べに来ました。首輪がなくなっています。切ってあげたんで、食い込んでいた首輪が外れたようです。その後だんだん傷もよくなっていき、うまく歩けるようになりました。次男のところに寄ってきて、だっこもできるようになりました。でも、私にはなかなか慣れません。私からおさえられて、首輪を切られて、よほど怖かったんでしょう。
首輪が食い込んでいた跡は毛が生えずに残りましたが、傷自体は治っていきました。
そしてだんだんに私にも慣れてきました。

でも、ある日、スズシロは突然来なくなりました。どこに行ったのか探せません。事故にでも遭ったのかなって思いました。
もう死んだのかもしれないと思っていたら、半年くらい経って突然あらわれたのです。雪の日でした。雪の上を元気そうに歩いて来ました。体格もよくて白い毛並みもきれいです。

「スズシロ~。ひさしぶり~」って声をかけたら、寄ってきて、エサをあげたら食べて、家の周りで少し遊んで、それからまたいなくなりました。

どこかの家で飼われるようになったのかもしれません。久しぶりに、うちに挨拶に来たのかな?

スズシロ、生きてたんだね。助かって良かった。

(伊藤一滴)

山里の暮らし4

山里暮らしをしながら、だんだん循環型の生活を目ざしてきました。
ただ、現代は合成樹脂や化学物質を含む製品が多く、そうしたものがゴミになるので、完全な循環型の生活にはなりません。
紙もうっかり焼けません。合成樹脂がコーティングしてある紙もあるし、障子紙のような化繊まじりの紙もあるし、印刷のインクにも化学物質が含まれるでしょうし・・・・。
再資源化の回収がある物品は回収に出し、それ以外の紙や合成樹脂はゴミ袋に入れて自治体の回収に出してます。
合成樹脂や化学物質の問題は人類全体で取り組むべき課題の一つでしょう。ゴミを減らしたくとも、家庭でできることは限られます。


山里で3人の子どもを育てました。ふもとの小学校、川の向こうの中学校がスクールバスで送迎してくれました。
学校でのいじめの話はありませんでした。生徒数が少なくて、みんな仲がいいんです。
「学習塾もないような田舎で、十分に勉強できないんじゃないか」と言う人がいましたが、逆でした。少数ですから、先生が一人一人をじっくり見てくれるんです。田舎の子の平均的な学力は高いです。

子どもの学習だけでなく、私自身も、山里に来てから新約ギリシャ語の学びを始めました。スラスラ読めるわけではありませんが、ここは同じ単語が使われているとか、違うとか、原語(校訂本)を参照できるようになりました。もし兼業農家にならずに街の中で勤め人をしていたら、語学を学ぶ余裕はなかったろうと思います。それに、子どもが小さかった頃に、絵本を読んであげたり宿題をみてあげたりできたろうか、そもそも、子どもを3人育てることができたろうかって、想像してしまいます。

もう一つ、山里暮らしが苦にならないのはインターネットの普及でしょう。山の中にいても全国はもちろん世界とつながっており、種々の情報を得られます(ウソ情報も混じっているので、注意が必要ですが)。
インターネットはいろいろな学習にも使えます。私も妻も、子どもたちには自然の中で思い切り遊んでもらいたくて勉強の強要はしませんでしたが、本人たちがやりたがり、インターネットが役立ちました。特に英語の学習は、発音も聞けるので助かりました。

郵便も宅急便も届きますから、ネットで種々の物品を買うこともできます。こんな山の中にいて、レイチェル・ヘルド・エヴァンズの著書が読める時代なのです。
今後、いっそう田舎暮らしが見直されるのかもしれません。

そりゃあ、大変な面もあります。
ふもとまで下りないと店がないし、ふもとの集落も過疎化が進んで店が少なくなり、今は食料品を買うのも川の向うまで行っての買い物だし。
今70歳くらいの人だと、若い頃はふもとまで歩いて魚屋や肉屋で買い物をし、荷物を背負って山道を登って帰ってきたそうです。50年くらい前まではそれが当たり前だったそうです。近所の人が、「家まで車で来れる日がくるとは思わなかった」と言ってました。

数年前の話ですが、集落の人が冬にふもとの店でお酒を飲んで、タクシーで帰ろうとして、タクシーが雪の坂道を登れなくなった、ということがありました。タクシー会社の四輪駆動車が救援に来て何とかしてくれたそうですが。
私も妻も、当然、四輪駆動車を使ってます。

冬は寒いし、道路は凍るし、豪雪はきついし、それに、世話をしてきたニワトリを肉にするのは、つらいし。いろいろありますね。
犯罪のない集落ですが、すぐ近くでクマが出たり、ヘビやムカデが家に入ってきたり、最近はイノシシの被害もあります。
自然に近い暮らしとは、そういうものなのでしょう。
いろいろ大変さはあります。でも、ここにいると不思議なくらい居心地がいいのです。

パソコンもタブレット端末も使っているんで、すべて昔と同じではないのですが、ある面は、半世紀前やもっと前のような暮らしです。
昔の人はこんなふうに生活していたのかと思いながら、家の修理も自分でやり、冬は火を焚いて、あえて不便なこともやっています。そして、それが楽しいと思える山里暮らしです。

家は古民家。
家の外は大自然。
夜は降って来そうな満天の星で、天の川までくっきり見えます。
呼吸をしても空気のおいしさが違います。

本当に、空気のおいしさまで違うんです。
用があって上京し、帰りに山形駅で降りると、山形駅前の空気がおいしく感じられるのですが、山里まで帰ると、山形駅前よりさらに空気がおいしいのです。

もう、街の中では暮らしたくないです。

(伊藤一滴)

山里の暮らし3

かつて内村鑑三は「学ぶべきは天然」と言い、自然農法家の福岡正信は「自然は完全なものとして完成している」と言いました。実際、山の中で暮らしながら、天然自然から学ぶことは多いと感じています。

害虫の発生にしても、その土地にふさわしくない作物を自然が除去する自然界のバランスの働きと考えることができます。つまり、農薬で害虫を駆除するより、無農薬でも害虫が発生しにくい作物を選んで栽培した方が自然の秩序に沿った農業だと言えるのです。それがその土地にあった作物なのですから。

自然農法を実践するクリスチャンが言っていました。
「害虫というのはイエス様みたいだ。虫は人の身代わりとなって、人が食べるべきでない作物を代わりに食べてくれる」
その言葉にはっとしたんです。人は作物を食べる虫を害虫と呼ぶけれど、虫たちはその土地にふさわしくない作物を代わりに食べて除去してくれている。その虫を薬で殺して、ふさわしくない作物を食べるのが人間なのか。虫たちは人間の身代わりとなってくれているのに、人間はその意味を悟らず、農薬で虫を殺してまで土地に合わない作物を作って食べている。

出荷用の作物でやむを得ない場合を除き、農薬を使わないことにしました。
やむを得ず使う場合でも、最低限の農薬使用量に抑えることにしました。

家の周りの虫は殺しません。害虫とされる虫も、蚊以外は殺しません。蚊は、しょうがないです。夏は天然除虫菊の蚊取り線香を焚いて、なるべく蚊を追い払うようにして、むやみには殺さないようにしていますけれど。

ネズミの被害には困りました。収穫したコメを荒らされるだけでなく、衣類や革製品や石鹸までかじられました。電話線を噛み切られて、電話が使えなくなったこともありました。電気のコードまで噛まれたら漏電火災の恐れもあります。
猫を飼うことにしました。最初は2匹でした。その後、猫が増えて、最大10匹になってました。
山里に猫を捨てる人がいて、保護していたら増えました、特に数年前、怪我をしてうちの敷地にたどり着いた猫が、「助けてください」というような顔でこっちを見るんです。助けないわけにはいかなくて、傷を消毒してエサをあげたら家に居つくようになって、それがメスで、家で出産して、それで10匹になりました。なんとか飼ってくれる人を探して猫を減らし、今は3匹家にいます(みな不妊、去勢済)。お隣さんが猫好きでエサをあげてくれるんで、猫が共同所有みたいになっちゃいました。
複数の猫たちがいつも家の中や家の付近にいるんで、ネズミ対策の効果は抜群です。


なるべく循環型の暮らしに近づけるよう心がけています。
米や野菜を自給する。
ニワトリを飼って卵や肉を得る。
くず米や米ぬかなどをニワトリにやる。
日々の食事の食べ残しを減らす。
魚のアラなどは猫にやり、野菜くずなどはニワトリにやる。エサにならない部分は肥料にする。
ニワトリのフンは、畑の隅に運んで草や籾殻(もみがら)と混ぜて、数年寝かしてこれも肥料にする。

最終的には肥料ですから、生ごみがゼロになりました。
そうやって、ゴミが減り、肥料の購入も減りました。

続く

(伊藤一滴)