「私はいい暮らしをしてきました。でも本当には生きてきませんでした」
15年前になりますが、このブログに、エリザベス・キューブラー・ロス著『「死ぬ瞬間」と臨死体験』を引用してこう書きました。
引用開始
自分自身の声に耳をかたむけることよりも、人からどう評価されるかを価値基準にし、愛を買おうとするような考えに対し、キューブラ・ロスはこう言います。
「愛を買おうと思って、彼らは一生うろうろ探し回ります。でも、愛は見つからない。真の愛は買えないからです。そういう人たちは死の床で悲しそうに私に言います。「私はいい暮らしをしてきました。でも本当には生きてきませんでした」。私が「本当に生きるってどういうことですか」と聞くと、こう答えるのです。「私は弁護士として(あるいは医者として)成功しました。でもじつは大工になりたかったんです」。」(鈴木晶訳『「死ぬ瞬間」と臨死体験』94頁)
この人がどうすればよかったのか、答えは出ています。大工になればよかったのです。気の毒に、自分の希望より、いい暮らしや人の評価を優先させてしまったのです。
また、こんなことも言っています。
「人生は短いのですから、結局のところは、自分が本当にやりたいことをやったらいいのです。(中略)そんなことをしたら貧乏になるかもしれない、車を手放すことになるかもしれない、狭い家に引っ越さなくてはならないかもしれない。でもその代わり、全身全霊で生きることができるのです。世を去るときが近づいたとき、自分の人生を祝福することができるでしょう。」(同書84頁)
実は、キューブラ・ロスのこうした言葉も、私たちが山里暮らしに向かってゆく背中をおしてくれました。
引用終了
出典 http://yamazato.ic-blog.jp/home/2006/01/
最近、たまたまネットで以下の記事を読みました。
「親に「大学に行け」「公務員になれ」と言われ続けて38歳で手取りが10万9000円になった話。」
https://www.regularno.com/entry/20210217
この人の親は、「大学に行けば幸せになる」「公務員になれば幸せになる」と思ったのでしょうか。
子どもの願いや適性から進路を探すのではなく、一方的に親の価値観を押し付ければ、それで子どもは幸せになるとでも思ったのでしょうか。
この記事を読んで、『「死ぬ瞬間」と臨死体験』を思い出したのです。
死を前にして、「じつは大工になりたかったんです」という人は、大工になればよかったのです。
「君はとても成績がいいのだから、法学部でも医学部でも行けるよ」と言われたとしても、そうした声を振り切って、自分の願いを貫いて、大工になればよかったのです。
いわゆる「いい暮らし」をして死ぬ前に後悔するくらいなら、全身全霊で生きて、質素な生涯をまっとうして、自分の人生を祝福したほうがいい。私自身そうしたいし、子どもたちにも、そうしてほしいと思います。
(伊藤一滴)
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