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福音派の熱狂 異言

福音派のことをもう少し書きます。

どちらかと言えば主流派(リベラル)は、冷静沈着で、静かに祈ります。伝道熱心でないため、教勢は伸びません。学問研究や教育、社会的な活動などで知られています。
どちらかと言えば福音派(保守)は、感情がこもっていて、力強く、時に激しく、熱狂的になります。伝道熱心で、かつて急速に拡大しました。

カルトも「異端」も熱狂的になりますから、
熱狂的になることが正しさの証しではありません。
でも、逆も言えません。
激しいから、熱狂的だから、だから間違っているということにもなりません。

信仰にかかわらず、人は正しいと信じれば、時に熱狂的になる場合があります(デモなど)。
それとは別に、スポーツやゲームなどの勝負や、大勢が集まる祭りやコンサートなども、人々を熱狂的にします。
日常、我慢の多い暮らしをしている人が、何かに熱狂してストレスを発散することもあるでしょう。
複数の要素が混じり合うこともあるようです。

福音派の場合は、
自分たちの教義を正しいと信じる確信、
この世の悪・誘惑との勝負(人によってはリベラル派の聖書学や神学との勝負、進化論との勝負)、
集まって共に祈ったり大声で賛美したりすることによる、祭りの要素、
この世の現実の中で感じているストレスの発散、
他もあるかもしれません。

参加者は「聖霊の働き」を感じているのかもしれませんが、私は、デモや、勝負や、祭りやコンサート、日常のストレスの発散等と共通の熱狂を感じました。そうした熱狂はカルトや「異端」の熱狂とも共通します。
熱狂してはいけないとは言いませんが、熱狂は「聖霊の働き」を証明するものではありません。


今も、「聖霊の働きによって異言を語る」人たちがいます。聖霊派と呼ばれる人たちで、大きく分ければペンテコステ派とカリスマ運動があります。どちらも、原理主義が台頭した20世紀初頭のアメリカで始まりました。(当てはまらない場合もありますが、一般には広義の福音派に、聖霊派も含まれると考えてください。私は、「極端になった原理主義から分かれた人たちが福音派を形成した」と考えていますが、聖霊派こそが福音派の源流と考える人もいます。なお、自称「福音派」の一部が、聖霊派を異端視して攻撃してくることもあります。)

以前、私は、ペンテコステ派やカリスマ運動の人たちからお話を伺ったことがあります。限られた経験なので断定的なことは言えませんが、少なくとも私がお会いした人たちは、排他的でない穏健なクリスチャンに見えました。
「知らないはずの外国語で話した人もいた」という話も聞きましたが、それは話に聞いただけで、目の前で見たわけではありません。
ペンテコステ派の礼拝は、だいたいは普通のプロテスタントようですが、目の前で異言を語って祈る人もいました。真剣に信じて祈る人に対して不謹慎かもしれませんが、私は、タレントのタモリさんの「ハナモゲラ語」(タモリの「外国」語)を思い浮かべていました。
異言は、自分にも出来そうな気がして、家に帰ってから誰もいない部屋で真似してみました。少しやってみたら、それっぽい「異言のような言葉」が口から出てきました。タモリさんでなくとも、異言を人為的にやろうとすれば似たことができます。

カルト問題への取り組みで有名な村上密牧師も聖霊派の方ですし、私が接した聖霊派の方々も温和な感じで、聖霊派に対して何ら悪い印象はありません。聖霊派はキリスト教の中のあり方の一つだと思います。(聖霊派の一部のカルト化はまた別の問題です。)
ただし、異言もまた「聖霊の働き」を証明するものではありません。

(伊藤一滴)

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