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「令和」を使おう

(「令和」は政権批判ではないか、という話の続きです。)

もうすぐ令和の時代が始まる。

私は、素人なりに令和というのは政権批判ではないかと感じたが、専門家の指摘を読んでも、その可能性は高いのではないかと思った。

仮に、令和という年号には何も裏の意味などなくて、裏があるという指摘は想像に過ぎない、とする。考案者も、裏の意味などまったく考えておらず、単に偶然が重なってそう見えるだけ、とする。

仮にそうだとしても、「裏の意味が意味を持って動き出す」のである。
それは、裏の意味を疑われても仕方がないことを、安倍政権とその仲間たちがいくつもやっているからである。
政権の側に何も疑われる点がないのなら、誰も裏の意味など疑いはしない。

「平成」と決まったときに、「平成というのは政権批判の元号だ」なんて、私が知る限り誰も言わなかった。当時の政治にも問題はあったろうが、当時は今ほど政権批判を許さない時代ではなかった。
今、安倍政権はささいな批判にも目くじらを立て、種々の圧力でマスコミを黙らせようとする。従う者にはちやほやし、逆らう者を力ずくで抑えつけているように見える。多くの国民は逆らわない方が得だと考えるのか、国民からの批判の声が弱い。それをいいことに安倍氏と仲間たちはますます力をつけ、忖度は行政だけでなく報道の側にまで広がってしまったようだ。「アベノミクスによる好景気」を演出しながら、特定秘密保護法や安保法、共謀罪まで強行採決して戦前回帰に舵を切り、重大な疑獄事件の可能性さえあるモリカケ問題をうやむやにし、関連する公文書の改竄事件が起きても一人の逮捕者も出さず、うやむやにした。

こうした現状に不満を持つ人たちの中に、「令和」という年号には政権批判の意味が込められている、と考える人がいる。それが、たとえ想像上の裏の意味であったとしても、現実の意味を持って動き出すのである。

言葉には魂が宿ると言われるが、ある意味を込めてその言葉を使うなら、言葉はその意味を帯びてくる。

我々は、仮に皇室の御意向や考案者の意図とは無関係だとしても、現政権の体質やそれに似た者たちへの批判の意味を込めて「令和」という年号を使おうではないか。

令和は「うるわしい平和」だという。

それこそ、プラカードに令和と大書きして掲げ、うるわしい平和に反する安倍政権を非難しよう。

令和! 令和! 令和! 

我々の魂を込めてこの年号を使い、日本を令和の国にしよう。

(伊藤一滴)

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