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寛容の難しさ

寛容な相手に対し、自分も寛容に接するのは難しくないです。

私は雪国の山里に住んでいますが、近隣の人たち(ほとんど農家)は実に寛容です。たしかに、冬は寒いし、雪も多いし、厳しいと言えば厳しい暮らしですけれど、広々とした大自然の中で、周りの人たちと助け合う中にいると、自分が他者に正直に、他者に寛容になっていくのがわかります。

都会にいた頃、もちろんいい人もたくさんいましたが、どこに悪徳業者・ペテン師・暴力団関係者・カルト宗教・過激思想の人・不審者、その他、自分に危害を加えるかもしれない人がいるかわからないような感じで、防衛しないといけないような状況でした。それに、よく見かける人にあいさつして、無視されるなんてこともありましたしね。

ところが、田舎の山里にいると、心のよろいはいらないのです。実は、玄関も、車のドアも、カギをかけたことがないんです(駐在さんからは、カギをかけてくださいと言われるのですが)。戦後一度も犯罪が起きていない山里です。私はすっかり身軽になりました。

むろん、山里だからといって桃源郷ではないし、都会とは別な大変さもありますけれど、心は身軽です。子どもたちもここで伸び伸び育ちました。

世界のみんながこの山里のようなら、きっと平和になるのでしょう。でも、現実は、深刻な問題の数々があり、世には不寛容がはびこっています。

たとえ立場が違っても、相手が寛容なら、自分もその人に寛容に接するのは難しくないです。しかし、きわめて不寛容な相手に対し、自分の側が寛容に接するのは難しいです。

他者から不寛容なことを言われたりされたりして、それに不寛容に報いたら、悪しき連鎖となることでしょう。それがわかっていても、相手の不寛容に対し、こっちが寛容に接するというのは難しい。

不寛容に対し、不寛容で報いない。悪に対し、悪で報いない。これを自分に言い聞かせるようにしていますが、実行は、なかなか大変です。

もっとこれを拡大して考えれば、国と国との関係、他の文化圏との関係についても同じことが言えるのでしょう。

アシジのフランシスコに帰せられる「平和の祈り」を引用します。フランシスコがこう祈ったというのではなく、フランシスコなら、きっとこう祈ったであろうという祈りです。

引用開始

主よ、わたしをあなたの平和の道具としてください。

憎しみのある所に、愛を置かせてください。

侮辱のある所に、許しを置かせてください。

分裂のある所に、和合を置かせてください。

誤りのある所に、真実を置かせてください。

疑いのある所に、信仰を置かせてください。

絶望のある所に、希望を置かせてください。

闇のある所に、あなたの光を置かせてください。

悲しみのある所に、喜びを置かせてください。

主よ、慰められるよりも慰め、理解されるより理解し、愛されるよりも愛することを求めさせてください。なぜならば、与えることで人は受け取り、己を忘れることで人は見出し、許すことで人は許され、死ぬことで人は永遠の命に復活するからです。

引用終了(ウィキペディアによる)

この祈りにあるように、理解されることよりも理解することを私が求めますように。

(伊藤一滴)

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