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2014年秋、雑感

天日干ししたお米の脱穀が済みました。 うちで栽培しているのは主に自給用の米です。 お米を売るとなると、労力を考えたら割に合わなくとも、自家用ですから、1年分のお米のストックが出来たと言えます。非常の事態でも、基本の食糧は確保されていると言えます。

羽釜があって竈(かまど)があって薪の蓄えや昔のランプがありますから、もし電気やガスが止まっても食事はできます。少し歩けば湧水があって飲料水の確保ができます。家のそばを流れる水は飲料には不向きですが洗濯などには使えそうです。

山形県の村山地方の山間部に住んでいます。私は山里の兼業農家ですから、そもそも、もうかる暮らしなどしてません。収入は多くないし、現金もあまり持っていませんが、食糧や昔の道具や自然の恵みは、お金とはまた違う「蓄え」と言えます。

これらがあれば、非常の時には自分の家や近隣の人たちの安全を確保し、避難してくる人を助けることも出来るでしょう。

世の人々は数字に目を奪われがちです。収入の多い人、資産の多い人が、上である、と考えがちです。そのような「上」を目ざすから、収入の多い職業が「上」であり、農家や職人は「下」とされます。今は、衣食住に関わる仕事は下に見られます。もうかりませんから。教育も、「上」に人を送り出す学校が「上」の学校であるという価値観です。でも、この価値観に普遍性などなく、たとえば、バブルの頃に花形であった「建築学科」など、今、偏差値の下落です。建築界はもうかりませんから。これで、首都直下大地震や経済破綻による円暴落でも起きたらたちまち既存の価値観は総崩れになることでしょう。どっちみち、生産拠点の海外移転による国内産業の弱体化や、労働人口の減少、処理できない放射性廃棄物の蓄積その他が続いて、既存の価値観が崩れてゆく日はくることでしょう。

残るのは、確かな考えだろうと思います。

これまた世には多種多様な考えがあって、いったい何が正しい考えなのかと思えてくるのですが、「他者を思う」人たちに、私はとても共感するものを感じます。

その人の行動や発言が、自分本位なのか、それとも「他者を思う」のかで、180度違ってきます。

一見、愛国的に聞こえる話が、目先の利益や単なるエゴであったりします。近隣諸国を怒らせる言動や、自然環境を破壊し続ける政策に、愛国は感じられません。

「日本人がよければそれでよい」というのも、愛国でもなんでもなくて、「自分さえよければそれでよい」という考えの拡大版でしかありません。世界がよりよくなる中で、日本もよくなってゆく、それを願う人こそが本当の愛国者でしょう。

世の中は競争社会であって、人生は戦いであるとか、勝ち続けなければならないとか、そういった、戦争にも似た考えが世に蔓延していますが、これをとことんやれば、まわりを傷つけながら自分も傷つき、共に不幸になってゆくことでしょう。いったい、その競争で得られるものと失うものと、どっちが大きいのか、考えているのでしょうか。競争に勝って、それで金銭を貯めこんだとしても、家族や隣人との良好な関係を壊すなどして、その金銭を有意義に使うこともなく、虚しく死んでゆく人も多いことでしょう。競争社会などど呼ばれる世の中は、みんなが不幸に向かって必死で走り続ける熾烈なマラソンのようです。

私がこんなことを言うと、貧乏人の負け惜しみと思う人もいるかもしれませんが、私は、自分が正しいと思う道を貫いていきたいです。

(伊藤一滴)

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