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渡部弥一郎、渡部良三 非戦の系譜

内村鑑三は1924年(大正13)、集会に集まった青年らに、次のように語ったそうです。「ぼくは以前(アメリカにいた頃)から行きたいと思っていたところがある。それは山形県の山奥の小国村というところで、ここならアメリカの宣教師も入った事はないだろうからここにしようと思った。とうとう今日まで行けなかった。もう一つ、それは岩手県の山地である。この夏休みに諸君のうちこれらの地方に行って伝道してくれる人はいないか」

内村鑑三は農村に住む純朴な人たちに、純粋なキリスト教を伝えたいと願っていたようです。内村自身は東京を拠点としており、多忙の身で、この願いを実現することはできませんでしたが、内村の呼びかけに応え、東京帝国大学の学生だった政池仁(まさいけ・じん)や鈴木弼美(すずき・すけよし)らが山形県の小国地方に行き、キリスト教を伝えました。

渡部弥一郎は小国地方の山間部に住む農民でした。農民といっても、家には作男と呼ばれる住み込みの使用人もいたそうで、当時としてはわりと裕福な農家だったようです。そして、知的な人でした。彼は、小国地方に来た内村門下の学生らに会い、話を聞いたようです。どんな会話がなされたのかまでは確認できませんが、話を聞いた渡部弥一郎は、内村の門下生らの理解者になり、協力者になりました。渡部弥一郎は思ったことをはっきり言う人だったそうで、太平洋戦争中に戦争を批判し、内村門下の非戦論者と共に弾圧を受けることになります。

渡部良三は、この弥一郎の子に生まれました。良三は中央大学に進み、学徒出陣で陸軍に入営します。歩兵として中国に派遣され、そして、縛られた中国人捕虜を刺せという命令を拒否しました。

渡部弥一郎も渡部良三も、内村鑑三の直弟子ではありませんが、内村鑑三を受け継ぎ、キリスト教的な不殺生・非戦論を貫いたと言えます。

(伊藤一滴)

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