宗教多元主義
前回の話の続きですが、ネット上の百科事典ウィキペデアの「宗教多元主義」の項も実に的を得た記述なので、引用して紹介します。内容や文章の感じからして「ジョン・ヒック」の項と同じ方がお書きになったのかな、と思います。
「宗教多元主義」ウィキペデアより引用(一部省略)
引用開始
歴史 [編集]
宗教多元主義はキリスト教、イスラーム、ユダヤ教、仏教、ヒンドゥー教、その他の諸宗教では一般的な思想ではなかった。これらの宗教では互いに自己を絶対化し、[他者を]無価値なものと決め付ける(宗教的排他主義)か、あくまでも自己の宗教の枠内において他宗教の価値を認める(宗教的包括主義)のが通常だった。([他者を]は引用者の補足)
(以下略)
ジョン・ヒック [編集]
イギリスの宗教哲学者ジョン・ヒックはキリスト教出身の哲学者で、宗教多元論の主唱者として最もよく知られている。もともとは伝統的な福音主義者であったが、文化的・宗教的な多様性が現に存在しているという事実を、神の愛と一致させる問題を考えることを通じて、次第に多元論へと向かっていった。ジョン・ヒックはキリスト中心主義から神を中心とし、唯一の神のまわりをキリスト教を含めた諸宗教がまわる神中心主義を唱え、従来のキリスト教からパラダイムシフトを起こし、ルビコン川を渡った。
今でもいわゆる排他主義的な思想を採用している宗教者の中には、宗教多元論を激しく攻撃する者もある。排他主義と多元主義の論争は、今日多くの宗教の中に見られる現象である。キリスト教やイスラム教における論争がよく知られているが、それは一神教に特有なものではなく、仏教やヒンドゥー教などの多神教においても見られる。
日本 [編集]
日本人はもともと宗教多元主義的だとする指摘がある。
ジョン・ヒックの説いた宗教多元論は多くのものに影響を与え、例えば日本では作家の遠藤周作に影響を与えた。彼の晩年の作品『深い河』には宗教多元論の影響を窺わせる記述があり、また、遠藤自身も『「深い河」創作日記』の中でヒックの著作に影響を受けたことを記している。
キリスト教(プロテスタント)の福音派はこの宗教多元主義を否定している。
引用終了
キリスト教の中には他者に寛容な個人や教派も存在しますが、その多くは「あくまでも自己の宗教の枠内において他宗教の価値を認める」宗教的包括主義なのでしょう。一方、自分が属する宗教以外に救いの道はないという主張は、「自己を絶対化し、[他の宗教や思想を]無価値なものと決め付ける」宗教的排他主義と言えます。
ただし、私が思うに、宗教は、必ず包括主義か排他主義かどちらかというわけではなく、その間にはさまざまな中間的な立場があるようです。
宗教多元主義の考えだと、唯一の本当の神(仏かも知れませんが)が存在し、その真の神をそれぞれのやり方で理解する諸宗教がある、ということになります。真の神という山頂を、山のいろいろな方角から見ているようなイメージです。そうすると、キリスト教もそうした諸宗教の中の一つとなり、相対化され、キリスト教の絶対性は崩れていきます。つまりヒック氏は、宗教多元論を主張することにより、キリスト教徒としての一線を越えたのです。これは、正統神学のドグマの側の人たち(および、正統かどうかはともかく、自分たちの考えが正統だと思い込んでいる人たち)は、絶対に受け入れることの出来ない見解でしょう。
私は、遠藤周作著『深い河』が出版されたとき、すぐに買って読みました。この本にはずいぶん考えさせられました。
生とは、死とは、魂とは、信仰とは、いったい何だろう、人は何のために生まれ、何のために生きるのだろう、どこから来てどこに行くのだろう・・・・と、考えさせられました。
キリスト教作家として知られた遠藤周作氏自身は「宗教多元論の影響を受けた人」ですが、「宗教多元主義者」ではありません。普通に考えれば、宗教多元主義者であることとキリスト教の信者であることは両立しません。マルクス主義者であることとキリスト信者であることが両立しないように、相容れないのです。(中には「マルクス主義の影響を受けたキリスト信者」も「キリスト教の影響を受けたマルクス主義者」もいるでしょうけれど。)
どうも、宗教多元論と一神教は、両立はしないけれど、水と油のようなものではなく、その間はグレーゾーンと言うか、境目がはっきりしないもののように思えます。
穏健なキリスト教徒であれば、「多元論をそのまま受け入れるわけではないが、尊重はする」といったところでしょうか。
私は、「排他主義と多元主義の論争」などに加わるつもりはありません。私はどちらの主義者でもないし、そんな論争よりも優先すべきことがたくさんあると思いますから。
ただ私は、「この宗教を信じる人以外は全員地獄に行く」みたいな教えは、理屈がどうこう以前の問題で、感覚的に拒否します。この感覚は理論ではなく、アプリオリなものです。
私は、ジョン・ヒック氏の信奉者ではありませんが、氏が、おそらく悩みながらたどり着いたであろう宗教多元論の主張を重く受け止めたいと思います。ヒック氏の宗教界(特に一神教を信じる人たち)への問題提起は大きいですから、宗教多元主義もあるのだと、紹介だけはしておきます。
(伊藤一滴)
自分は宗教に興味がありながらどの宗教の信者にも成れない人間です。しかしながら、極、素朴に神というか真理がありそれが人間を含めた存在の根底で、存在を保っている力だと感じています。
仏教とキリスト教を勉強していますが、この二つの宗教が文化的に非常に異なった宗教であると見えると同時に、その、深部では同質の深みを持っものだと感じます。(よく輪廻転生がキリスト教と違うという議論を見ますが最古の仏典では輪廻転生は在りません。さらに、仏教は無神論というのも誤りです。神については沈黙を守れ言ってるのみですー人間が神の勝手なイメージつくりだし相争うからす。偶像崇拝の否定とも受け取れます)
たとえば、自分のプシュケー捨てたものは自分をを得る、
アートマンを捨ててアートマンを得るー仏教と同質に思えます。
ロゴスと法(ダルマ)ロゴスが人格化したものが神とみるならば、法が人格化したものが仏であるとみることも可能です。永遠の命のことも古い仏典には書かれています。
アガペーという愛もイエスの口から出る限りにおいてエピスミア(渇望)の愛を超越した心の状態であり、いま傷ついている人の悲しみへの共感に他ならないものに感じます。その意味で慈悲と同質と言ってよように思います。
アガぺーはラブと訳されたのは16世紀以降であり本来はチャリティ(慈善)と訳されていたとも聞いています。
解釈にもよりますが、神の国もルカ福音では神の国は,「実にあなたがたのただ中にあるのだ」とあり、」そして、心の清いものは神を見るとあります。仏教では悟りを開いたものは一切のものに慈しみを感じるとあります(スパニタータ)、心の清められた、心理を体現した心の状態であり、これが涅槃です。
今日宗教の持つドグマは異文化の出会いの中で大きな問題(文明の衝突)生み出しアメリカの大統領の口からハルマゲドンという言葉まで出ています。きわめて危険な今日の問題であるといえると思います。
ジョン・ヒック氏が多元論を言い出すのはこのような現代の状況と対面しイエスの愛の意味を考え、他者(他の文明・神)理解なくしては人類の未来は危ぶまれると思ったからでしょう。(理屈の問題だけではないのだと思います)一つの宗教を絶対だと信じれる人は羨ましくも思いますが、自分は多元論に共感します。
投稿: 田口 | 2013-07-30 02:40
コメントありがとうございます。
世には様々な立場の人がいます。すべての人が多元論を受け入れるべきだなんて言いませんが、尊重してほしいと思う気持ちがあります。他者を思いやる気持ちがあれば、深刻な対立は避けられるのではないかと思います。宗教が原因で(あるいは宗教を口実にして)互いに血を流し合うような事態は避けてほしいです。
(一滴)
投稿: 伊藤一滴 | 2013-08-08 16:38